左党です、と胸を張って
北の街道を二日歩くと、道の両側に林檎の木が増えてきた。
赤い実がたわわに実り、枝がしなっている。風が吹くたびに、甘酸っぱい香りが道いっぱいに広がった。
「このにおいは林檎酒の香りです」
クロの鼻がひくひくと動いた。
「それもとびきりおいしい林檎の」
道の先に小さな村が見えてきた。入口には大きな布の幕が張られ、そこに太い字が踊っている。
『リンゴ谷 収穫祭』
そして案山子が一体、村の入口に立っていた。
麦わらの腕を右の方へまっすぐ伸ばしている。
「案山子さん。右へ進めということですね」
クロは案山子に深々と頭を下げて、村の中へ踏みこんだ。
*
村の広場はすでに大賑わいだった。
テーブルが何列も並び、焼いた肉と焼いた林檎と焼いたパンのにおいが入り交じる。子どもたちが走り回り、大人たちは杯を片手に笑い、広場の真ん中では若者たちが輪になって踊っていた。
「いらっしゃい、旅の人! 収穫祭は誰でも大歓迎だよ!」
声をかけてきたのは赤い頬の丸顔のおばさんだった。名前はマリアといって、この村の料理自慢だという。
「おいしいものはありますか」
「あるとも! 豚の丸焼きに、川魚の燻製に、焼きりんごに、新麦の焼きたてパン。それから、今年の林檎の新酒も、たっぷりあるよ」
「全部、いただきます」
「即答だね!」
マリアが大笑いして、クロの背中をばしんと叩いた。
「その鞄、重そうだねえ。持ってあげるよ」
「いえ、軽いので大丈夫です」
「そうかい?」
クロは鞄の肩紐を握り直した。
「ふり」は、いつも通り板についている。
*
最初に出されたのは川魚の燻製だった。
桜の枝の煙でゆっくりといぶされた川鱒だった。皮が飴色に光り、身がしっとりとほぐれる。
クロは一口かじった。
『味覚データ照合中。燻製の香り、強め。川魚の脂、良好。塩分、やや控えめ』
「……」
「どうだい、うちの自慢の燻製は」
「おいしいです。とてもおいしいのですが」
クロは鞄の口に手を入れて、小袋を取り出そうとして、止めた。
「……」
秘密にすると決めた手前、人前で塩を出すのは危ない。
クロはちらりとあたりを見回した。
誰も見ていない隙に、小袋の口をつまむ。ほんの一粒だけ指先で燻製の皮にそっとのせた。
もう一口。
「……!」
『燻製の香り、強め。塩分、適量。旨味、増幅。川魚の脂、丸みを帯びる』
「ああ、これです。煙と塩は親友ですね」
クロが小声でつぶやくとマリアが首をかしげた。
「今、何か言ったかい」
「いえ。燻製の香りに感動しただけです」
クロは真顔で答えた。
*
「さあさあ、いよいよ始まるよ!」
広場の真ん中で鐘が鳴った。
白い髭を長く伸ばした老人が、台の上に立っている。この林檎園の主人で、名前はハンスといった。
「今年も恒例の利き酒大会を始める! ルールは簡単。三つの杯の林檎酒を飲んで、それぞれの熟成の年を当てるのだ! 優勝者にはわしの秘蔵の古酒を一本進呈しよう!」
わあっと歓声が上がった。
「利き酒大会」
クロの目が輝いた。
「出ます」
「えっ、あんたが?」
「はい。出ます」
「でもこの大会、村の男衆が十年かけて挑む大会で……」
「出ます」
クロはためらいなく手を挙げた。
「おや、旅の娘さんかね」
ハンスがじろりとクロを見下ろした。
「なんだ? お前さん、下戸の来るとこじゃねえぞ?」
「いえ。私は上と左の方です」
クロは胸を張って答えた。
一瞬、広場が静まりかえった。
それからどっと笑いが起きた。
「上と左だとさ!」
「堂々と言ったな!」
「いいぞ、娘さん! その意気だ!」
ハンスも口の端をにやりと持ち上げた。
「よかろう。ならば、その上と左の腕前を見せてもらおうか」
*
台の上に三つの杯が並んだ。
どれも淡い黄金色の林檎酒だった。見た目に違いはない。
参加者は男衆が十人とクロ。
最初の杯を口に含む。
『アルコール度数、6.2%。林檎品種、赤紅玉。熟成期間、およそ一年』
「……」
二つ目。
『アルコール度数、6.8%。林檎品種、赤紅玉と青玉の混醸。熟成期間、およそ三年』
三つ目。
『アルコール度数、7.5%。林檎品種、青玉主体。熟成期間、およそ七年。わずかに酸化』
クロは杯をすっと置いた。
「一つ目は一年。二つ目は三年。三つ目は七年です」
広場がざわついた。
「なっ……」
「ひとつも迷わなかったぞ」
「ハンスさん、答えは?」
ハンスは長い髭をひねって、ゆっくりと言った。
「……正解じゃ」
「おおお!」
「ただ、わしの勝負はこれからじゃ」
ハンスは台の下から四つ目の杯を取り出した。
「最後の一杯。これはわしが作った、最高の林檎酒だ。熟成の年はわしにしか分からん。娘さん。これを当ててみなさい」
クロは杯を受け取った。
匂いを嗅ぐ。
ふわりと立ちのぼる香りに、蜂蜜と乾いた草と、ほのかな樽のにおいが混じっていた。
口に含む。
舌の上をゆっくりと甘みが転がる。後からすっと酸味が追いかけてくる。そこへ深い樽の香りが重なって、最後にほんの少しだけ栗のような香ばしさが残った。
『アルコール度数、8.1%。熟成期間、およそ十五年。……いえ』
クロは目を閉じた。
「……十六年と四か月です」
「……!」
ハンスの目が見開かれた。
「な、なぜそこまで」
「最後の樽の香りに、栗の木の風味が混じっています。十六年前に樽を栗の木から作り直された年があるはずです。そこから数えました」
「……」
ハンスは無言のまま台の上に座りこんだ。
それからぽろぽろと涙をこぼしはじめた。
「十六年と四か月。まさに…その通りじゃ。娘が嫁入りした年に、樽を新しく作り替えた。娘が出ていった春に、仕込んだ酒じゃ」
「そうだったのですか」
「ありがとう、娘さん。誰も気づかなんだ。この酒の本当の年を」
「おいしい酒には物語があるのですね」
クロは杯をそっとハンスの手に戻した。
「ごちそうさまでした。いい酒です」
広場が割れんばかりの拍手に包まれた。
*
優勝の賞品はハンスの秘蔵の古酒だった。
「ほれ、持っていけ。お前さんになら、渡せる」
「いえ、そんな貴重な」
「受け取りなさい。お前さんはわしの酒の味を分かってくれた」
「……」
クロは両手でそっと瓶を受け取った。
ずしりと重い。中の酒が琥珀色にゆらめく。
「ありがとうございます。大切にいただきます」
「うむ。今夜はわしと飲み明かそう」
「喜んで」
その夜、広場の真ん中に大きな焚火が焚かれた。
豚の丸焼きが運ばれてくる。皮はパリパリで、中はシットリ。ナイフを入れると肉汁が滝のようにあふれた。
焼きりんごには蜂蜜とシナモンがトロリとかかっている。新麦のパンは焼きたてで湯気を上げていた。
そして杯には新酒の林檎酒がなみなみと注がれた。
「かんぱーい!」
声が重なる。
クロは杯を傾けた。
ゴクゴク、ゴクゴク。
「プハァ」
「いい飲みっぷりだ、娘さん!」
「おいしいです!」
『アルコール度数、6.5%。香り、豊か。判定、おいしい』
「ああ、この新酒の若い香りも、また格別です。熟成した酒の深みも素晴らしいですが、収穫したての林檎のはじけるような甘みは、今この時にしか味わえません。年々時間が味を変えていくのですね」
早口になっていた。
ハンスが目を細めて、うなずく。
「その通りじゃ」
「そして豚の丸焼き! 皮のパリパリと、肉のシットリが、同時に口の中で……」
酒を重ねるにつれて、頬が赤くなってきた。
三杯目あたりでクロはふらりと立ち上がった。
「皆さん。踊りましょう」
「おっ、いいねえ!」
若者たちが歓声を上げる。クロは輪の中に飛びこんで、手を取り合ってくるくると回りはじめた。
「あははは。あはははは」
笑いが止まらない。
隣の若者の腕にぎゅっとしがみつく。その向こうの若者の肩にことんと頭を預ける。さらにその隣のおじさんの首にふざけて抱きつく。
「ちょ、ちょっと、娘さん」
「あたたかいです。皆さん、あたたかいです」
「やめんか! 嫁に見つかったら殺される!」
「みんなであたたかいのです」
若者たちが次々と顔を真っ赤にして固まるなか、マリアが大笑いしながらクロの襟元を整えた。
「ほらほら、うちの男どもを誘惑するんじゃないよ」
「誘惑ではありません。あたたかいところを探していただけです」
「それが誘惑なんだよ」
「そうなのですか」
「そうなんだよ」
ハンスが腹を抱えて笑っていた。
星が瞬き、焚火がはぜた。
歌と笑い声は夜が明けるまで続いた。
*
翌朝。
目を覚ますと、クロは広場の長椅子の上で毛布にくるまっていた。
『酩酊モード、終了』
『体内異常なし。二日酔いの症状なし』
「……」
起き上がると、周りに男衆が十人ほど折り重なるように寝ていた。
その中央でハンスが、安らかな顔でいびきをかいている。
「皆さん、お元気ですね」
クロは小さく笑って、毛布をそっと直した。
マリアが焼きたてのパンと、温かいスープを持ってきてくれた。
「ほら、朝飯だよ。昨日は大活躍だったねえ」
「ありがとうございます。いただきます」
「それと、これ」
マリアが小さな麻袋を差し出した。
「村の林檎のドライフルーツ。道中でかじりな」
「……! いただいてもよろしいのでしょうか」
「いいから持っていきな。あんた、放っておくと飢えそうな顔してるからね」
「食事は本来、必要ないのですが」
「何を言ってるんだい」
マリアが目を丸くして、呆れた顔になった。
「人は食べなきゃ動けないんだよ。ほら、持っていきな」
「はい」
クロは麻袋を、鞄の口へ入れる「ふり」をして、収納魔法の中へしまいこんだ。
マリアの顔を見て、ふと思い出す。
マルタにも同じことを言われた。
ここでも同じことを言われた。
どうやらこの時代の人々は、みんなが同じことを考えているらしい。
食事は必要なものなのだ。
そう思うと胸の奥が、ほんのりと温かくなった。
「ありがとうございます、マリアさん。また来ます」
「待ってるよ、左党の娘さん」
「その呼び名は少し、恥ずかしいです」
「いいじゃないか。いい名前だよ」
クロははにかむように笑った。
村の出口にあの案山子が立っていた。
麦わらの腕は今度はまっすぐ北を指している。
「北ですね。承知しました」
クロは案山子に会釈をして、街道へ踏み出した。
林檎の香りが風に乗って、いつまでも背中を追いかけてきた。




