雲がパンに似ていたので北へ
朝の宿の前には見送りの人が並んでいた。
「クロちゃん、また来てね! 絶対だよ!」
「お嬢ちゃんのおかげで、うちの酒がやっと売れるようになった。本当にありがとう」
ピアが三つ編みを揺らして手を振り、ガルドが大きな腕を組んで笑っている。ベンノは荷馬車の上からにやにやと見下ろしていた。
「娘さん。次の町では、あまり派手に使うなよ」
「善処します」
「それが一番、信用ならんのだ」
ベンノの隣では串焼き屋の主人が串を握りしめて、じっとクロを見つめている。
「ギルドで順番を取ったからな。塩が入荷したら、真っ先に買うぞ」
「ありがとうございます。きっと串が喜びます」
クロは丁寧に頭を下げた。鞄の肩紐を握り直し、顔を上げる。
町の門の外には街道が二手に分かれて伸びていた。
「さて。どちらへ行きましょうか」
右の道は東の山へ向かっている。左の道は西の海へ向かっている。そして真ん中を抜ける道はまっすぐ北へ続いている。
「選択肢が三つです」
クロは腕を組んだ。
空を見上げると、青い空に大きな雲がひとつ、ゆったり流れていた。
丸くてふっくらしていて、真ん中にうっすらと切れ目が入っている。
「あれは」
クロの目がすっと細くなった。
「結び目パンにそっくりです」
雲は北へ流れていた。
「決めました。北です。雲がパンに似ていたので」
誰も聞いていなかったが、堂々と宣言した。
そして迷いのない足取りで、北の街道へ踏み出した。
*
昼前の街道はのどかだった。
麦畑のあいだを細い道が続いている。ところどころに石の道標が立っていて、風が吹くたびに麦の穂が波のように揺れた。
クロは歩きながら、鞄の口へ手を入れた。
「ふり」をしながら、収納魔法の中から昨日買っておいた結び目パンを取り出す。
ホカホカの湯気が立っていた。収納魔法の中は時間が止まっているので、買ったときのままだ。
「まず、一口」
かじる。
外はパリッと、中はモチモチ。表面についた岩塩の粒が、歯にコリコリと当たる。
『味覚データ照合中。小麦の風味、良好。塩分、やや強め。焼き色の香ばしさ、良好』
「……うん。おいしい」
もう一口。
「ですが、岩塩の粒が少し大きいですね。噛むたびに塩気が強く出て、パンそのものの甘みが、後ろに引っこんでしまいます」
クロは鞄の口から小袋を取り出した。
「ひとつまみ、生地の側に」
パンの断面に左党の塩をそっと振る。
もう一口。
「……!」
小麦の甘みが舌の上でフワッとひらいた。
「岩塩の粒の塩辛さは、焼き上がりの香りを邪魔していたのですね。こちらの塩なら、パンの甘みを持ち上げてくれます。これは大発見です」
誰もいない街道で、クロは大きくうなずいた。
*
日が傾いてきた頃、クロは街道の脇の原っぱで足を止めた。
小川の近く。大きな木が一本。周りには誰もいない。
「今夜はここにしましょう」
鞄の口に手を入れる。
収納魔法の中から薪の束と、石のかまど用の平たい石と、鉄の網を取り出した。
ひとつずつきれいに並べる。
手馴れた動きだった。
火をおこし、網を載せる。
そこへ金の雄鶏亭で仕入れた腸詰めを三本並べた。
ジュウッと音がして、脂が弾けた。香ばしいにおいが、夕暮れの空気に広がる。
クロは続いて鞄の口から小さな樽を取り出した。
酒造所の主人が「お礼です」と持たせてくれた、本物の林檎酒だ。
木の杯に注ぐ。淡い黄金色の液体が、夕日にきらめく。
「それでは。乾杯です」
誰にともなくそう言って、杯を傾けた。
ゴクゴク、ゴクゴク。
「プハァ」
『アルコール度数、標準値。香り、豊か。判定、おいしい』
「ああ、これです。これが本物です」
網の上で腸詰めの皮がパリッと割れた。
左党の塩をほんのひとつまみ。
「焼きたてに塩を」
かじる。
ジュワァと肉汁があふれた。
「……!」
クロは杯を片手に天を仰いだ。
「腸詰めの脂の甘みが塩に引き出されて、林檎酒の酸味がそれをすっと切るのです。脂、塩、酸味、泡。この四つが舌の上で順番に手を取り合って、ぐるぐると回るのです」
早口になっていた。
「しかもこの塩は、腸詰めに含まれた香草の風味をくっきり浮かび上がらせてくれます。ああ、塩とはなんと偉大な調味料でしょうか」
誰もいないのに延々と語る。
星が少しずつ空に増えていった。
*
「……ずいぶん、おいしそうなにおいがするじゃない」
不意に背後から声がした。
クロは杯を持ったまま振り返った。
茂みの向こうからひょいと顔を出したのは若い女性だった。
栗色の髪を後ろでざっくり束ねていて、背中には弦楽器を背負っている。旅慣れた服装で、頬に泥がついている。
「あの、通りすがりの者なんだけど。お腹が減って倒れそうで」
「それは大変です。どうぞ」
クロは即座にかまどの脇を開けた。
「えっ、いいの?」
「食事は必要なものです。遠慮はいりません」
「うれしい! ありがとう!」
女性は焚火の前にすとんと座った。名前はフィーネというらしい。旅の吟遊詩人だという。
クロは腸詰めを一本、皿代わりの平たい石に載せて差し出した。
フィーネは目を輝かせて、かじった。
「……」
「どうでしょうか」
「……」
「あの、フィーネさん?」
「……うま」
「はい」
「うま、うま、うま! 何これ、なんでこんなにおいしいの!?」
「塩がいいのです」
「塩!? この塩、何?」
「左党の塩といいます」
その瞬間だった。
フィーネの動きが、ぴたりと止まった。
「……さとうの塩?」
「はい」
「あなた、名前は?」
「クロです」
「クロ……。黒髪に青い瞳。左党の塩。ミルトの町から来た、お酒好きの娘……」
フィーネの顔がみるみる輝いていく。
「あなた、もしかして、広場でブラム酒店を潰した、あの『左党の娘』!?」
「……はい?」
「やっぱり! 町じゅうの噂よ! 悪徳酒屋と汚職隊長を一晩で並べて、本物の原酒を町じゅうに振る舞ったって!」
「噂になっているのですか」
「なってるなってる! あたしもあの話を聞いて、すぐにミルトへ向かう途中だったの!」
フィーネは背中の楽器を下ろして、弦をはじいた。
ポロン、ポロンとやわらかな音が夜の原っぱに広がる。
「ちょっと待って。今、歌にするから」
「歌にする?」
「そう! 題して『左党の娘』!」
フィーネは目を閉じて、弦を鳴らしながら歌いだした。
♪ 右も左も 分からぬ旅の
♪ 杯ひとつ 掲げた娘
♪ 偽りの酒に 眉ひとつ動かさず
♪ 塩ひとつまみ 悪を断つ
「ま、待ってください」
クロが慌てて手を挙げた。
「その歌は少し、恥ずかしいです」
「えー、いい歌なのに」
「事実と違うところがあります。私は眉を動かしました」
「そこなんだ」
「そこです」
フィーネは肩を震わせて笑いだした。
「ふふふ、あはは! あなた、おもしろい! 決めた。今夜はごちそうになるから、そのお礼に歌を一曲、プレゼントするわ!」
「歌は結構です」
「だめ、もう決めたの。ほら、聴いてて」
「あの、でも」
「いいからいいから」
フィーネは調子を取り戻し、陽気に弦をはじき始めた。
クロは困り顔で腸詰めを一本口に入れた。
『塩分、適量。脂の甘み、良好。判定、おいしい』
「……おいしいので歌は許します」
「やった!」
*
その夜、原っぱにはふたりの笑い声が響き続けた。
「ところで、その鞄、さっきから見てたんだけど」
「はい」
「ずいぶん小さいのに、どうして樽まで出てくるの?」
クロは杯を傾けて、すました顔で答えた。
「手品みたいなものです」
「手品……」
フィーネは目をパチパチさせた。
「へえ。その手品、売れるわよ。大道芸人になれる」
「大道芸は苦手です」
「うん、確かに向いてなさそう」
「失礼ですね」
「だって、腸詰めを食べる顔が、全部に出てるんだもの」
「そうでしょうか」
「そうよ。最高に幸せそうな顔」
クロは自分の頬をそっと触った。
自覚はなかった。
でも確かに口元がゆるんでいた。
林檎酒を三杯、四杯、五杯と重ねるうちに、フィーネの頬も真っ赤になった。
「ああ、いい夜ね」
「はい。いい夜です」
「クロ」
「はい」
「あなた、いい子ね」
「ありがとうございます」
フィーネはごろんと草の上に寝転んだ。
そしてクロの膝に頭をことんと預けた。
「ちょっとだけ借りるわね。膝」
「構いませんが、重いです」
「重くないでしょ、これくらい」
「重いです」
「ひどい!」
くすくす、くすくすと笑い声が重なった。
しばらくしてフィーネの寝息が聞こえてきた。
クロは毛布を取り出して、そっとフィーネにかけた。
それから杯に残った林檎酒をゆっくりと飲み干した。
星空が広がっていた。
一万年前と同じ星の並びだった。
「……博士。いい夜です」
小さな声でクロはつぶやいた。
夜風がやさしく、髪をなでていった。
*
翌朝。
目を覚ましたフィーネが、クロの顔をまじまじと見つめた。
「ねえ、クロ」
「はい」
「昨日、あたし、何か変なこと言わなかった?」
「歌にすると言っていました」
「それは覚えてる」
「それから、私の膝で寝ていました」
「……! あ、あ、あ、あたしそんなことを!?」
「重かったです」
「やめて、思い出させないで!」
フィーネは両手で顔を覆った。
クロは小さく笑った。
「大丈夫です。あたたかかったので」
「……ありがとう」
焚火の灰を片づけて、ふたりは並んで街道に出た。
分かれ道だった。
「あたしは東の山へ向かうんだけど、あなたは?」
「北です」
「北かあ。そっちはいま収穫祭の時期よ。村じゅうがごちそうを作ってるはず」
「収穫祭」
クロの目がぱっと輝いた。
「食べ物が…たくさん、ある、ということですか」
「そう、たくさん。お酒もね」
「行きます。今すぐ」
「ふふふ、ほんと、食いしん坊なんだから」
フィーネは弦をはじいて、軽く手を振った。
「また会おうね、クロ。次はあたしにもごちそうさせて」
「楽しみにしています」
ふたりは手を振り合って、逆の方向へ歩きだした。
クロは北の空を見上げた。
昨日の雲とは違う雲が、のんびりと流れていた。
「あの雲は揚げパンに似ています」
どうやら今日も行き先は決まったようだった。




