左党の塩、はじめました
朝の光が窓から差しこんで、クロはゆっくり目を開けた。
『酩酊モード、終了』
『体内異常なし。二日酔いの症状なし』
宿の部屋だった。ベッドはふかふかで、枕元には藍色の上着がきちんとたたんである。いい朝だった。
クロは寝転んだまま鞄の中をまさぐった。
「……おや」
もう一度まさぐる。
「……」
財布を引っぱり出して、逆さにして振る。
ちゃりんと、銅貨が三枚、布団の上に落ちた。
「銅貨が三枚です」
誰もいない部屋で、クロは静かに報告した。
「昨日まで、金貨がたくさんあったはずなのですが」
数えてみる。
昨夜、金の雄鶏亭で全員におごった。そのあと勢いで、酒造所の主人たちから本物の原酒を樽で買い占めて、町じゅうに振る舞った。深夜には、閉まりかけの屋台を端から端まで食べ歩いて、気に入った店には「応援の気持ち」と言って、銀貨で支払った。
「おつりは結構です、と言った記憶があります」
その結果が銅貨三枚だった。
「予算を決めてから飲む、と誓ったはずでしたのに」
クロは天井を見つめた。
それからむくりと起き上がった。
「仕方ありません。働きましょう」
*
宿の一階の食堂で、ベンノが朝のスープを飲んでいた。
「おお、娘さん。起きたか」
「おはようございます、ベンノさん」
「どうした。顔色がすぐれんぞ」
「実はお金がなくなりました」
「……」
ベンノの手が止まった。
「……全部か」
「銅貨が…三枚あります」
「三枚」
「三枚です」
ベンノはスープの椀を置いて、天井を仰いだ。
それから深々とため息をついた。
「だから言うたろうが。使いすぎるな、と」
「善処したのですが」
「善処した結果がこれか」
「はい」
クロは神妙にうなずいた。
「ベンノさん。お金を稼ぐにはどうすればよいでしょうか。盗賊の方々はもういません」
「そこから考えるのか、お前さんは」
ベンノは腕を組んで、少し考えた。
それからにやりと笑った。
「娘さん。一昨日の夜、河原で、あんたの塩の話をしたのを、覚えておるか」
「左党の塩ですね」
「そうだ。あれを売りなさい」
「売る、のですか」
「ああ。塩の行商だ。ただし、それには商業ギルドへの登録が要る」
ベンノは懐から折りたたんだ紙を取り出した。
「この町のギルドはわしの古い付き合いだ。今日、一緒に行こう」
「ありがとうございます。登録料はおいくらですか」
「銀貨二枚だ」
「銅貨三枚しかありません」
「わしが立て替えておく」
「いいのですか」
「投資だ。あんたの塩は必ず売れる」
クロはぱっと顔を輝かせて、ベンノの手を両手でぎゅっと握った。
「ベンノさんはいい人です」
「そ、そうか」
「はい。あったかいです」
「手を離しなさい。周りが見ておる」
*
商業ギルドは大通りの中ほどにある石造りの建物だった。
入口には天秤を掲げた紋章が飾られている。中に入ると、帳場の向こうで赤毛の受付嬢が書類の山と格闘していた。
「いらっしゃいませ。ベンノさん、お久しぶりです」
「やあ、ミーナ。今日は新しい子の登録をお願いしたい」
「新しい子?」
ミーナがクロを見て、目をぱちくりさせた。
「お名前は」
「クロです」
「ご職業は」
「旅の食いしん坊です」
「そ、そういうのではなく、行商の品目をお聞きします」
「塩です」
「塩……」
ミーナが顔を曇らせた。
「塩は領主様の塩税がかかる品です。海の塩と岩塩の仕入れ先を、ご申告いただかないと」
「仕入れ先はありません。作りました」
「作った?」
「地面の下にありましたので」
ミーナの眉間に深い皺が寄った。
ベンノが慌てて割りこむ。
「ミーナ、まずは見てくれ。鑑定士のオットーさんはおるか」
「は、はい。裏にいらっしゃいます」
奥の鑑定室から白髪の老人が杖をついて出てきた。長年塩と砂糖と香辛料の鑑定を務めてきた、ギルドの目利きだという。
クロは鞄の口に手を入れて、収納魔法の中から小さな袋を取り出した。
「どうぞ」
オットーは袋を受け取って、ひとつまみ掌にのせた。
「ほう」
白い。雪のように白い。粒が細かく揃っていて、角が丸い。
オットーは指先に少しだけつけて、舌にのせた。
その瞬間、老人の動きが止まった。
「……」
「どうでしょうか」
「……」
「あの、オットーさん?」
「……娘さん」
オットーの声がかすれていた。
「これは何だね」
「塩です」
「いや、塩ではない。いや、塩なのだが。苦味もえぐみもない。舌に刺さらない。それなのに旨味が、ある」
「はい。左党の塩と名付けました」
「さとう……? 塩なのに…砂糖か。名付けの由来は何だね」
ベンノが咳払いをして、横から説明を始めた。
「この娘さんはな、上か下かと言えば上、右か左かと言えば左の方の子でな」
「両手とも遜色なく使えます。上下で上というのは、よく分かりませんが」
「そういうわけじゃない、と言うておるだろうに」
「では、どういうわけでしょうか」
「まあ、とにかくだ。昨晩の町のお祭り騒ぎ。あの中心にいたのも、この娘さんだ」
「昨晩の……。広場にブラムと隊長を並べて、本物の原酒を町じゅうに振る舞ったという娘さんは、あんたか」
「はい。私です」
「ああ」
オットーがポンと手を打った。
「その左党か。お酒好きなんだね、あんた」
「……」
クロはぴたりと固まった。
「お酒好き、という意味が、あるのですか」
「酒を飲めない者を下戸や右党と呼び、酒をこよなく愛する者を上戸や左党と呼ぶことがある。遠回しに、左利きだとか、な」
「……」
クロはベンノの言葉を頭の中で並べ直した。
上か下かと言えば上。右か左かと言えば左。
「……上戸の左党、という意味だったのですね」
「ようやく分かったか」
クロはゆっくりと自分の記録を探った。
一万年前の辞書にも博士と交わした言葉にも、そんな言い回しは見当たらなかった。この時代に生まれた新しい言葉らしい。
「……そうだったのですか」
「気づいておらなんだのか」
ベンノが肩を震わせて笑いだした。
「だから、そういうわけじゃない、と言うたのだ」
「……ずっと左利きのことだと思っていました。戦勝の宴でも兵隊さんに『左の人か』と言われて」
「宴?」
「いえ、こちらの話です」
クロは咳払いをして、顔を上げた。
「私は左党です」
堂々と宣言した。
「今日から左党を名乗ります。腕は左利きで通します」
「開き直ったな」
「事実ですので」
オットーが涙を流して笑っている。
笑いが収まったところで、オットーは目を閉じて、しばらく黙っていた。
それからゆっくりと目を開けた。
「わしは四十年この仕事をしておる。海の塩も岩塩も山の泉の塩も、王都の献上塩も、全部舐めてきた。こんな塩は初めてだ」
「ありがとうございます」
「……娘さん」
「はい」
「これは売ってはいかん」
「え」
クロとベンノが同時に声を上げた。
「いや、売るのはよい。よいのだが、売りすぎてはいかん。この純度の塩が市場に大量に出れば、塩の相場が崩れる。大商会が黙っておらん。領主様の耳にも入る」
「それは困ります」
「だろう」
ベンノが深くうなずいた。
「わしもそう思っておった。娘さん、稼ぎすぎはいかん。目立ちすぎると、面倒に巻きこまれる」
「面倒、ですか」
「ああ。悪い連中が寄ってくる。だから、控えめにやりなさい」
クロは少し考えた。
それからぱっと顔を上げた。
「分かりました。では、売り方を決めます」
「うむ。左党の塩は、しばらくの間は、それぞれの町や都市のギルドに持ちこむのを基本とする」
オットーが杖でとんと床を突いた。
「秤の片方に金貨を、反対側に塩を載せる。吊り合ったら、そのまま交換する。基本的には、並の塩を金と同じ重さで取引することはない。だが、この高い極上の塩だけは、金と同じ重さで取引するに値する」
「金貨と同じ重さの塩が、金貨一枚になるのですね」
「そうだ。金貨一枚は銀貨十枚。庶民の一月の稼ぎが、金貨四枚ほどだ」
「それはすごい金額です」
「だから決まりを作る。ひとつの町で金貨二十枚分まで。ひと月が過ぎたら、同じ町でもまた二十枚分まで。それ以上は持ちこまんでくれ」
「二十枚、ですか」
「庶民の五か月分だ。それでも少ないと思うか」
「いえ、十分です。それに…働きすぎたら、食べ歩く時間が減りますので」
ベンノが肩を震わせて笑った。
オットーもくつくつと笑いだした。
「その程度であれば、こだわる料理人と金持ちたちが嗜好品として使う程度で収まる。相場も崩れん。わしが鑑定の内容を書こう。品質は特級だ」
「それと、もうひとつ」
オットーが声を低くした。
「左党の塩はギルドの卸として扱う。誰が卸しているのかは、ギルドが秘密にする。買い手にもほかの商人にも、明かさん」
「どうしてですか」
「塩を作れる者が分かれば、よこせと押しかける者も、さらおうとする者も出る。娘さんが食べ歩く時間を守るためでもある」
「記録はギルドの金庫に封印します」
ミーナが胸に手を当てた。
「見られるのは私とオットーさんと、ギルド長だけです」
「わしも口外はせんぞ」
ベンノが大きくうなずいた。
「ありがとうございます。助かります」
クロは深く頭を下げた。
登録は半刻で終わった。
ミーナが首から下げる小さな木札を差し出す。
『行商人 クロ 扱い品目 塩(左党の塩)』
「大事にしてくださいね。これがクロさんの身分証になります。裏にはオットーさんの鑑定内容も記載されていますので、左党の塩はどの町のギルドでも等しく買取致します。受付でこの木札を見せていただければ、その町のギルド長にだけ話が通る仕組みです。受付係にもどなたが卸した塩なのかは伝わりません」
「大事にします」
クロは両手で木札を受け取って、そっと首にかけた。
胸の上で木札がことりと揺れた。
「これで私は行商人です」
「そうだな」
「自由にお金を稼いでよい身分です」
「稼ぎすぎなければな」
「善処します」
「お前さんの『善処』は、信用ならんのだが」
*
帳場の奥からミーナが大きな秤を運んできた。
鑑定士オットーの立ち会いで、取引が始まる。
秤の右の皿に金貨が二十枚。ぴかぴかと光っている。
クロは鞄の口に手を入れて、収納魔法の中から薄い布で包んだ塩の小袋を取り出した。左の皿にそっと載せる。
秤の針がゆっくり揺れる。
右に傾いて左に傾いて、中央でぴたりと止まった。
「吊り合いました」
ミーナが目を丸くした。
「金貨二十枚分の重さです。これを…お支払いします」
渡された金貨はずしりと重かった。表には獅子の紋が、裏には麦の穂が刻まれている。
「確かに…お受け取りしました」
クロは金貨を、鞄の口へ入れる「ふり」をして、収納魔法の中へ丁寧にしまいこんだ。
「大変だったね、クロさん。次の町でもその木札を見せれば、同じ条件で取引できるわ。ひと月に金貨二十枚分までは、忘れないでね」
「ありがとうございます」
ベンノが感慨深げに言った。
「大したものだ。初日で…庶民の五か月分だぞ」
「ありがとうございます。それでは」
クロはくるりと振り返った。
「これから食べ歩きの時間です」
「待て。まず登録料を」
「あ、そうでした」
クロは銀貨二枚をベンノの手に返した。
「ありがとうございました、ベンノさん」
「律儀だな。それで残りは?」
「金貨が二十枚です。今日の夕食の予算は銀貨三枚です」
「予算を決めたのか」
「はい。予算を…決めました」
クロは胸を張った。
「今度こそ、善処します」
「頼むぞ、本当に」
ベンノは祈るように天を仰いだ。
*
昼の食べ歩きは夕食の予算とは別に銀貨一枚。つまり銅貨十枚までと決めた。
クロは市場を歩きながら、心の中で計算を始めた。
『串焼き、銅貨一枚。揚げパン、銅貨一枚。焼き栗、銅貨一枚。腸詰めのパン挟み、銅貨二枚。温かい飲み物、銅貨一枚。林檎酒、銅貨二枚』
「銅貨十枚で、どこまで行けるでしょうか」
最初の屋台は肉の串焼き屋だった。
香ばしいにおいを嗅いだ瞬間、足が勝手に止まった。
「いらっしゃい! 一本、銅貨一枚だよ!」
「二本、お願いします」
串を受け取って一口かじる。
ジュワッ。
『味覚データ照合中。脂の風味、良好。塩分、やや不足。香辛料、控えめ』
「……」
クロの動きが止まった。
「どうした、嬢ちゃん。うまいだろ」
「おいしいです。とてもおいしいのですが」
クロは鞄の口に手を入れて、小袋を一つ取り出した。
「ひとつまみ、振ってもよろしいでしょうか」
「ん? 塩か。構わんが」
ぱらり。
白い粉が串の肉に降りかかる。
もう一口。
『塩化ナトリウム、極めて高純度。旨味成分、良好。肉の甘みが十二割増し』
「……!」
クロの目からぽろりと涙がこぼれた。
「おいしい、です」
「どうしたんだ!?」
「肉の脂が塩に引き出されて、噛むたびに甘みが湧いてくるのです。串を焼くときの炭の香りまで、塩が一層くっきりと浮かび上がらせて、ああ、塩とはなんと偉大な調味料でしょうか」
「お、おう」
「ご主人。ぜひ、この塩をお使いになってください。差し上げます」
「ええっ!? い、いいのか」
「はい。ただし、お使いになる前に、ひとつだけ」
「何だ」
「串に振りすぎないでくださいね。ほんのひとつまみで、十分ですので」
串焼き屋の主人が、半信半疑で一本焼き直して、塩を振った。
試食した主人の顔が、みるみる青ざめた。
「……嬢ちゃん」
「はい」
「これ、売ってくれ。いくらでも出す」
「申し訳ありません。私の塩はギルドを通してしか売っておりません」
「ギルドか! 分かった、すぐ頼みに行く!」
「それと、私が作り手だということは、ここだけの話にしてください」
「お、おう。口が裂けても言わねえ」
「ギルドの取り扱いが始まれば、きっと分けてもらえます」
「承知した!」
クロはにこにこと笑いながら、二本目の串に手を伸ばした。
*
夕方、金の雄鶏亭に戻った。
ピアが笑顔で出迎える。
「クロちゃん、お帰り! 今日は何を食べる?」
「エールと腸詰めと、結び目パンを。それと」
クロは財布を取り出した。
「この財布に銀貨が三枚あります。今夜の夕食の予算です」
「え、予算?」
「はい。予算を…決めて飲みます」
「えらい! クロちゃん、成長したね」
「成長しました」
クロは堂々と胸を張った。
ジョッキが運ばれる。
一気に傾けてゴクゴクと喉を鳴らす。
「プハァ」
「いい飲みっぷりだ」
「おかわりを」
二杯目。三杯目。四杯目。
ピアが指を折りながら数えていた。
「えっと、エールが銅貨一枚で四杯だから、四枚。腸詰めが銅貨四枚、パンが二枚。合計で…十枚ちょうど」
「銀貨一枚でぴったりですね」
「ぴったり! すごい!」
「予算内です」
クロは満足げにうなずいた。
その横顔を見ながら、ガルドが厨房の奥で、ぼそりとつぶやいた。
「あの嬢ちゃん、五杯目に入ったら、また計算が崩れるぞ」
「大丈夫でしょ。ちゃんと予算決めたんだから」
「それが…一番あぶねえんだ」
ガルドの予言はほどなく当たった。
「ピアさん。おかわりを」
「えっ、まだ飲むの?」
「予算はあと銅貨二十枚分あります」
「あれ、さっき使い切ったんじゃ」
「いえ、私の予算は銀貨三枚です。まだあと銀貨二枚残っています」
クロはにこにこと輝くような笑顔で言った。
ピアは何も言えなくなった。
結局その夜もクロは予算の上限まで、きっちりと飲み干した。
翌朝。串焼き屋の主人が、ギルドの順番待ちの札を握りしめて、宿の前で手を振っていた。
こうして各町のギルドで少しだけ塩を売り、食べ歩く旅の暮らしが、静かに始まったのだった。




