塩は太古の調味料
左の道はのどかな下り坂だった。
麦畑が広がり、羊が草をはみ、遠くで水車がゆっくり回っている。空気には土と草のにおいがした。
クロは鞄の紐を握って、鼻歌まじりに歩いていた。
「分かれ道の石は右が丸くて、左が角ばっていました。角ばっているほうを選ぶのが、冒険らしいと思います」
誰にともなく言って、うなずく。
行き先を決めるのはいつもその場の気分でいい。そう決めてから足取りは驚くほど軽かった。
やがて道の脇にきらきら光るものが見えてきた。
小川だった。
「……魚がいます」
クロの目が青く輝いた。
*
魚は手づかみで獲れた。
正確には水に手を入れた瞬間に、三匹の川鱒が自分から手のひらに跳ね上がってきた。魔素の濃い水に棲む魚は人の気配に疎いらしい。
「ありがとうございます。いただきます」
手を合わせてから河原の石で小さなかまどを組む。枯れ枝を集め、指先でそっと火を灯した。
誰も見ていないので、ここは魔法だ。
串に刺した魚を火にかざすと皮がパチパチと弾けて、香ばしいにおいが立ちのぼった。
「いい香りです。これは期待できます」
焼きあがった一匹を両手で持って、かじる。
『味覚データ、照合中』
『川魚。脂の風味、淡白。旨味、中。塩分、ゼロ』
「……」
クロの動きが止まった。
「味は……します。素材の味です」
川鱒の甘みも脂の風味もちゃんと舌に届いている。焼いた皮の香ばしさも申し分ない。これはこれで間違いなくおいしかった。
それでもクロは首をかしげた。
「ですが…物足りません」
悲しそうな声だった。
身を口に含むと、舌が何かを待っているような、あと一歩足りない感じがする。素材のよさがいちばん上まで引き上げられる前に、手前で止まってしまっているのだ。
「塩です。塩があれば、きっともっとおいしくなります」
マルタにもらった食糧の中に塩漬けの肉はある。けれど今欲しいのは魚に振る塩だった。
クロは河原に座りこんだまましばらく考えていた。
それからぱっと顔を上げた。
「……作りましょう」
*
塩がどこにあるか。
クロは知っていた。
川のそばの地面を両手でそっと撫でてみる。土の下の下、ずっと深いところに、うっすらと白い層が眠っている感触があった。
『地下二十メートル。古い湖の跡。塩分を多量に含む層を確認』
一万年前。ここには広い内海があったのだ。
水が引いたあと、塩だけが土の中に残った。人は誰も気づかず、その上に麦を植えている。
クロは両手を地面に当てた。
魔素を流しこむ。
土の底からひと筋の水の気配が、ゆっくりと立ち上ってきた。
水は手のひらの上で、透明な玉になって浮かんだ。そこからさらに苦いもの、えぐいもの、土のにおい、重い金属の気配をひとつずつ静かに取り除いていく。
残ったのは塩の味だけを持ったごくごく澄んだ水だった。
「懐かしい手順です」
昔、博士と台所で何度もやった。塩壺が空になるたびに魔導で塩を作って、ふたりで笑った。
水の玉がゆっくりと乾く。
白い結晶がきらきらと粉になって、手のひらに降り積もった。
粒が細かく揃っていて、角が丸い。雪のように白い。
クロは指先でひとつまみして、舌にのせた。
『塩化ナトリウム、極めて高純度。苦味成分、ほぼゼロ。微量のミネラル、旨味成分、良好』
「……」
声が出るまで少し時間がかかった。
「塩辛くないのに、甘いです」
それから頬を押さえた。
「塩の味がまっすぐ舌に届いて、そのあとでじんわり丸くなります。角がありません。水に溶けるような塩気、というものが、この世にあったのですね」
早口になっていた。
軍の鍋に入っていた塩は舌に刺さる味がした。同じ塩とは思えない。
「これを魚に振ったら、どうなるのでしょう。気になります。非常に気になります」
川鱒の皮にひとつまみ。串を回して軽くあぶる。
もう一度かじる。
ジュワッと脂が弾けた。
淡白な身の奥から、甘みと旨味が、塩に引っぱり出されるように湧いてくる。皮のパリッとした香ばしさ、身のほろりとした口どけ。舌の上で全部がひとつに混ざっていく。
「……!」
クロは目を閉じて、天を仰いだ。
「おいしいです……!」
声が裏返った。
「塩は味を足すのではなく、もとの味を呼び出す役目だったのですね。この魚は最初から甘かったのです。私が気づかなかっただけで」
誰もいない河原で、クロは語り続けた。
川の水の音と薪のはぜる音だけが、答えてくれた。
*
日が傾く頃、河原に荷馬車が止まった。
「おうい、そこの娘さん。野宿かい」
声をかけてきたのは大きな荷物を背負った中年の男だった。日に焼けた顔に人懐こそうな目をしている。
「ええ。夕飯の最中です」
「いい匂いに釣られてな。いや、すまん、つい」
男は荷馬車から降りて、頭をかいた。
名前はベンノといった。この辺りを三十年回っている行商人だという。
「ひとり旅かい。この先の森には気をつけたほうがいいぞ」
「森、ですか」
「黒蛇団という盗賊団がいる。商人の荷車ばかり狙う、質の悪い連中だ。軍も手を焼いておる」
「それは困りますね」
「だろう? だから明日の朝、わしと一緒に森を抜けないか。娘さんひとりより、二人のほうがいい。町まで連れて行ってやるよ」
「ありがとうございます。助かります」
クロは丁寧に頭を下げた。
それから焼き魚の串をベンノの前に差し出した。
「よろしければ、ひとつどうぞ。お礼に」
「おお、いいのかい。ありがたい」
ベンノは何の気なしに串を受け取って、かじった。
その動きがぴたりと止まった。
「……」
「どうでしょうか」
「……娘さん」
「はい」
「この塩はどこで買った」
「買ってはおりません。作りました」
「作った? どうやって」
「地面の下にありましたので」
ベンノは串を持ったまましばらく黙っていた。
それからがっと身を乗り出した。
「娘さん。わしは三十年塩を扱ってきた。海の塩も岩塩も山の泉の塩も、全部味見した。こんな塩は一度も食べたことがない。苦味もえぐみもない。舌に刺さらない。それなのに旨味がある。信じられん」
「そうですか。昔はこれが普通でしたので」
「昔?」
「あ、いえ。田舎の作り方です」
クロは慌てて焼き魚にかぶりついた。
ベンノはまだ疑わしげに串を見つめていたが、やがてふっと息を吐いて笑った。
「まあ、いい。詮索はせん。ただな、娘さん。この塩は金になるぞ」
「お金にですか」
「ああ。ゆっくり考えておきなさい。さあ、飲もう。わしの旅用の樽だ。エールだが、塩焼きの魚には最高の友だ」
ベンノが荷馬車から小さな樽を下ろした。
木の杯に注がれた琥珀色の酒が、夕日にきらめく。
クロは両手で杯を受け取った。
『アルコールを検知。酩酊モードを起動しますか?』
「はい」
クロは杯を口に当てて、そのまま傾けた。
ゴクゴク、ゴクゴク。
喉が上下に動く。
あっという間に杯が空になった。
「プハァ」
『苦味、麦の香り、泡の舌触り。新規登録。判定、おいしい』
「おお、いい飲みっぷりだ」
「……! 苦いのに魚の脂をすっと切って、また次の一口が欲しくなります。塩の旨味とエールの苦味が、まるで握手をしているようです。これは発明です。大発明です」
「ははは。気に入ってくれたかい」
「はい。ベンノさん。この樽の名前を教えてください」
「ただのエールだよ」
「ただのエール。覚えておきます。おかわりを…お願いします」
「おう。ほれ」
二杯目はまた一気だった。
「プハァ。おかわりを…お願いします」
「娘さん、速いな」
「おいしいので…止まりません」
三杯目はさすがに少しゆっくりだった。それでもクロの頬はほんのり赤く染まり、満足げに目が細くなっていた。
「そういえば、さっきの塩だが」
ベンノが杯をかたむけながら言った。
「売るなら名前が要る。名無しの塩では買い手が不安がるからな」
そう言ってクロの手元をじっと見た。
杯を持っているのは左手だった。
「娘さん、左利きか」
「いえ、両手とも遜色なく使えます」
「そういうわけじゃない」
「では、どういうわけでしょうか」
「まあ、いい。とにかく、こうしよう。左党の塩」
「さとうのしお」
クロは首をかしげた。
「塩なのにさとう、ですか? 砂糖のようですが」
「字が違う。左の党と書いて、さとうと読むのだ」
「左の党……。よく分かりませんが、左手で杯を持つ私が作った塩、ということですね」
「まあ、そういうことだ。ぴったりだろう」
ベンノはにやにや笑って、杯を干した。何か別の意味もあるらしいが、クロには分からなかった。ただ響きは気に入った。
「左党の塩。いい名前です。採用します」
「決まりだな。では、あらためて乾杯だ」
四杯目あたりから距離が近くなった。
「ベンノさん。ベンノさんはいい人ですね」
「そ、そうかい」
「はい。いい人です。いい人はあったかいです」
クロはごろんと体を寄せて、ベンノの腕にぎゅっとしがみついた。長い黒髪がさらりと胸元に落ちて、酒で赤くなった頬が、肩口にすり寄せられる。
「む、娘さん。いや、その。わしには女房も娘もおるのでな」
「あたたかい……ふふ」
「離れなさい。離れなさいと言うに」
「いやです」
「いやですじゃなくて!」
結局ベンノはクロが寝息を立てるまで、固まったまま動けなかった。
火のはぜる音。川の音。夜風の音。
星が少しずつ空に増えていった。
*
翌朝。
「ほれ、行くぞ。森は昼までに抜けたい」
「はい」
荷馬車はのんびりと街道を進んだ。
クロはベンノの隣に座って、鞄の中の干し肉をかじっていた。
昼が近づくにつれて、道の両側に木々が増えていった。やがて頭上を葉が覆い、気温がすうっと下がる。
森に入ってしばらく経った頃だった。
『敵性反応、前方に十五。左右に十。後方に五』
クロがふと顔を上げた。
「ベンノさん」
「ん?」
「囲まれています」
「え」
荷馬車が止まった。
その瞬間、木々の陰からばらばらと人影が飛び出してきた。
手には剣と斧と棍棒。頭には黒い布を巻いている。
「止まれ止まれ! 荷物を置いていけ!」
「黒蛇団だ!」
ベンノの顔が青ざめた。
「しまった。も、もう出てきおったか。娘さん、荷物は諦めて、命だけでも」
「ベンノさん」
クロが静かに言った。
「無力化してもよろしいでしょうか」
「……え?」
「あの方々を殺さずに、おとなしくさせてもよろしいでしょうか」
「な、何を言っておる。相手は三十人だぞ」
「三十人です」
「いや、あの」
盗賊の首領らしい男が、前に出た。髭面の大男で、肩に黒い蛇の刺青をしている。
「ほう、嬢ちゃんがひとりで何だって? 面白え。おい、野郎ども。まずは身ぐるみ剥いでやれ」
「傍若無人な方々ですね」
クロは眉ひとつ動かさずにベンノのほうを向いた。
「ベンノさん。許可を…お願いします」
「……」
ベンノは口を半開きにして、クロの顔を見た。
青い瞳はまっすぐで、曇りがなかった。
どうしてだろう。この娘なら本当にやってしまう気がした。
「……や、やっておしまいなさい」
「承知しました」
クロは立ち上がった。
荷馬車の上からひらりと降りる。裸足の足が土の上にふわりと着いた。
「それでは、こらしめます」
*
一瞬だった。
クロは手のひらを前に向けて、ふっと息を吹くように広げた。
何も見えない。何も聞こえない。
ただ盗賊たちの口と鼻の中だけに、ごく小さな透明な気配が生まれた。
『無色無臭の昏倒ガスを、対象の口腔と鼻腔内にのみ発生。持続、約三十分。後遺症なし』
先頭の男の目がとろんと焦点を失った。
「あ……?」
バタン。
それを合図に盗賊たちが一人、また一人と、糸の切れた人形のように倒れていった。剣が手から落ち、斧が地面に転がる。叫び声を上げる暇もなかった。
二十九人がほんの数呼吸で眠りに落ちた。
立っているのは首領ひとりだけだった。
「な、何をした」
ベンノがかすれた声で尋ねた。
「眠っていただきました。ベンノさんには届かないよう、あの方々の口と鼻の中にだけです」
「そ、そんなことが」
「手品みたいなものです」
「て、手品?」
「はい。種も仕掛けもあります」
クロは首領のほうに向き直った。
「あなたはお話を聞くために残しました」
「て、てめえ」
首領が腰の剣を抜いた。その刃が柄のところからさらさらと崩れて砂になった。同時に足元の地面がすとんと抜けた。首領は首から下を飲みこまれ、顔だけが地面から突き出した。
「なんだこりゃあ! 動けねえ!」
「ば、化け物か!」
「失礼な。私は通りすがりの旅人です」
クロは首領の前に歩み寄り、にこりと笑った。
「あなた方は人から奪って生きてきましたね。因果応報です」
「ひ、ひい」
「迷惑料をいただきます。お財布と荷物の中のお金を、全部出してください」
「そ、そんな。もう空っぽで」
「そうですか」
クロは小首をかしげて、首領の顔をのぞきこんだ。
「では、身ぐるみをいただきましょう」
「へ?」
地面に大きな穴がひとつぽっかりと開いた。
眠ったままの盗賊たちが、まとめてそこへ吸いこまれていく。かわりに穴の縁へ上着、ベルト、ブーツ、腕輪、懐のナイフ、鎧の留め具がポイポイと吐き出されて山になった。肌着や下着までひとつ残らず積み上がっていく。
眠っているのは手下だけだ。顔だけ出した首領が、ひとりで真っ赤になって叫んだ。
「ぎゃあああ! やめろ! 俺の服を返せ!」
「見るな! 見ないでくれ!」
首領は首から下を埋められて、顔だけを出している。手下の二十九人は、大きな穴の底でグゥグゥ眠ったままだった。穴の中からはのんきないびきがいくつも聞こえてくる。みんな何も着ていないことは地面の下の秘密だった。
ベンノは思わず手を合わせそうになった。
「む、娘さん。地面が勝手に動いたぞ」
「手品みたいなものです」
「どう見ても手品ではないが」
「手品です」
「そ、そうか。容赦がなさすぎるぞ」
「悪事に容赦は不要です。それにどこかに金貨が隠してあるかもしれませんので」
案の定、上着の裏地や靴底から、銀貨や金貨がざらざらとこぼれ落ちた。首領の腹巻きの中には金貨が二十枚も入っていた。
「ほら、ありました」
盗賊たちがそろって項垂れる。
盗賊たちの手元から集まった銀貨と金貨の山を、クロは鞄の口へ入れる「ふり」をして、収納魔法の中へ丁寧にしまいこんだ。
「……ふむ。あとは荷物ですね」
盗賊たちが隠れ家に溜めていた荷物の中から、クロは一着の服を見つけた。
深い藍色の上着。旅の女性が着る仕立てのいい服だった。
「これもいただきます」
「そ、それは襲った馬車の商人の娘のもの」
「持ち主にお返ししないといけませんね。あとで衛兵に届けます。お返しするまでの間、少し借ります」
実際には持ち主を探すつもりだった。けれど今すぐ着替えたいのも本音だった。
白くて古い服はこの時代の人の目にはあまりにも目立つ。
茂みの陰で素早く着替える。
出てきたクロは藍色の上着に、黒い髪と青い瞳がよく映えていた。
「どうでしょうか、ベンノさん」
「ああ、いや、驚いた。似合っておる」
「ありがとうございます」
ベンノの足はまだ少し震えていた。
「娘さん。あんた、いったい何者だ」
「通りすがりの食いしん坊です」
クロは胸を張って答えた。
そしていびきをかく盗賊たちに向き直る。
「さて。この方々は衛兵に引き渡すまで、ここで反省していてもらいましょう」
クロが穴の縁を軽く踏みならすと、土の低い柵がせり上がって、穴をぐるりと囲んだ。中からは二十九人分のいびきが聞こえてくる。
「ベンノさん、町に着いたら、衛兵に連絡をお願いできますか」
「あ、ああ。もちろんだとも」
「ありがとうございます。それと」
クロはくるりと振り返った。
「お昼にはまだ間に合いますか。おなかが…すきました」
ベンノはぽかんと口を開けた。
それから腹を抱えて笑いだした。
「ははは! あんた、本当に面白い娘さんだ! 間に合うとも! 町に着いたら、うまい店を教えてやろう!」
「本当ですか。楽しみです」
クロの顔がぱあっと明るくなった。
荷馬車が再びのんびりと進みはじめた。
森の出口が見えてくる。その向こうにミルトの町の屋根が、小さく並んでいた。
クロは懐の革袋をそっと撫でた。銀貨と金貨の心地よい重みがあった。
「これでお酒がたくさん飲めます」
「娘さん、使いすぎないようにな」
「善処します」
その返事を聞いて、ベンノはなぜか嫌な予感がした。




