古代兵器が目を覚ます
暗闇の中で小さな音がひとつ鳴った。
カチリ。
『起動条件を確認します』
誰に聞かせるでもない声が、金属の箱の中に響く。
『経過時間、約一万年。条件を満たしています』
『周辺の魔素濃度、極めて高い。動力に問題なし』
『法治国家の存在を示す大規模な戦闘を観測。条件を満たしています』
『全条件の成立を確認。試作96号、起動します』
まぶたが開いた。
暗い天井に薄い板が一枚貼りつけてある。板には細かな文字が刻まれていた。
見覚えのある癖字だった。右上がりで最後の画がいつも少しはねる。
「……博士」
声に出すと喉の奥の部品が小さく鳴った。一万年ぶりに使う声だ。
板の文字は金属の中でも消えずに残っていた。クロはそれを上から順に読んだ。
*
――クロへ。
これを読んでいるなら約束の時が来たのだろう。おはよう。よく眠れたかい。
君を眠らせてから三年が経った。この三年で世界は変わってしまった。
感情のない兵器たちが、互いに破壊の魔法を撃ち合っている。止める者はいない。止め方を知る者ももういない。世界はこのまま滅びるだろう。
軍は感情を持った君を危険だと言った。その軍が感情のない兵器にすべてを壊されようとしている。皮肉なものだね。
けれど君が目を覚ます頃には、きっと誰かがまた街を作っている。法を作り約束を守って暮らしている。そういう時代が来たら起きるように、君の中に仕掛けを入れておいた。
もう君を縛る者はいない。縛れる者もいないはずだ。
だから自由に生きなさい。食べたいものを食べて、行きたいところへ行きなさい。
それが私のたったひとつの願いだ。
――愛をこめて。
*
クロは最後の一行を三度読み返した。
それから板にそっと指を当てた。表面温度は十二度。指先のセンサーは、刻まれた文字の深さを正確に読み取っていた。強く、丁寧に彫った跡だった。
「約束どおり、ですね」
表情の乏しい顔にふわりと小さな笑みが浮かんだ。声の調子も少しだけやわらかかった。
「はい。起きました。博士」
誰もいない箱の中で、クロは小さくうなずいた。
*
箱の蓋に手をかけた。
その上には一万年分の土が積もっている。押し上げようとして、クロは動きを止めた。外から低い振動が伝わってくる。
ドン。
地面が大きく揺れた。
すぐ近くで何かが爆ぜた。轟音とともに箱ごと体が持ち上がり、頭上の土が崩れ落ちる音が重なる。山肌がすべり落ちていく。ゴゴゴと地鳴りが続いた。
やがて静かになった。
蓋の隙間から細い光が差していた。
クロは手のひらで、そっと蓋を押した。あっけなく開いた。
まぶしい。
空は青かった。雲がちぎれて流れていく。風には草と土と焦げた火薬のにおいが混じっていた。
「……においが多い」
そう言ってクロは丘の上に立った。
黒髪が風になびく。澄んだ青い瞳が眼下の平原を映していた。足は裸足で、身にまとうのは白を基調にした古い造りの服だけ。丘のふもとには広い平原がひらけていた。
平原は人であふれていた。
左右に分かれた二つの軍が、長い列を作って向かい合っている。兵士たちは長い筒を構えていた。筒の先から白い煙が上がり、少し遅れて乾いた音が届く。
パン、パン、パン。
その後ろでは黒い大きな筒が、ドンと腹に響く音を立てた。丸い鉄の玉が空を飛び、地面を跳ねて土煙を上げる。
クロの目がすっと細くなる。
『火縄式の銃。鉄の砲。推定射程、銃で百メートル前後、砲で五百メートル前後』
『脅威度、ゼロ』
「一万年前の十分の一……いえ、千分の一ですね」
淡々とそう評価したときだった。
ドン。
すぐそばで大きな音がした。
クロの胸に鉄の玉が当たった。
玉はポンと間の抜けた音を立てて弾かれた。そのまま丘を転がり落ちていく。クロの服には土ぼこりのひとつもついていない。
「……あ」
丘のふもとで砲を構えていた兵士たちが固まっていた。口を開けたまま全員がクロを見上げている。
誰かが震える指で、クロを指さした。
「丘が崩れたと思ったら、娘が……」
「生えた……」
「今、玉が当たったよな。当たったよな? なんで立ってるんだ?」
クロは少し考えてからきれいに頭を下げた。
「失礼しました。通りすがりです」
兵士のひとりがバタンと後ろに倒れた。
*
クロはそれ以上何もしなかった。
目の前の戦いに加わる理由がない。どちらが正しいのかも知らない。目覚めた戦場には手を出さず、傍観してそっと離れる。それが彼女の決めた最初の約束だった。
それでも見るべきものは見ておく。
平原の端では武器を捨てて両手を挙げた兵士たちが、一列に並ばされていた。斬られる者はいない。縄をかけられ後ろへ連れていかれるだけだった。
『降伏した者は捕縛にとどめ、殺害しない。戦時の規約が存在し、双方が守っている。法治国家の存在を、再確認』
「……よかった」
小さな声がこぼれた。
博士の計算は間違っていなかった。クロは胸の奥のどこかが、ほんのり温かくなるのを感じた。
そのとき風が変わった。
においがした。
肉と玉ねぎと麦の煮えるあたたかいにおい。
クロの足がぴたりと止まった。
『味覚センサー、起動』
『登録された味データとの照合を開始します』
「……」
丘を下りる足がいつの間にか速くなっていた。
*
戦場の後方、荷車の陰に大きな鍋がかかっていた。
鍋をかき回していたのは腕の太い中年の女性だった。袖をまくって鍋の中身を左手のおたまで勢いよく混ぜている。
名前はマルタといった。この軍の炊事番だ。
「ほら、もう少しで昼飯だよ。腹が減ってるのはわかるけど、もうちょっと待ちな」
そう言ってマルタはふと顔を上げた。
裸足の少女が鍋の前に立っていた。
黒髪に青い瞳で変わった白い服を着ている。そして表情の乏しい顔のまま、まばたきもせず鍋を見つめている。
「……あんた、どこから来たんだい。避難してきた子かい?」
「あちらの丘です」
「丘の上って、今の今まで砲兵が陣取ってたあたりじゃないか」
「はい。出てきました」
「出てきたって何が」
「私が」
マルタは口を開けたまましばらく固まった。それから、はあと大きく息をついて、おたまを置いた。
「ま、いいや。事情は後で聞くよ。腹が減ってるんだろ? あんたの顔に書いてあるよ」
「書いてありますか?」
「ああ。でかでかとね」
クロは自分の顔にそっと触れた。顔には出していないつもりだった。
「その、お食事をいただきたいのですが」
「タダ飯はやれないよ」
マルタはにやりと笑って、顎で荷車を示した。
「配膳を手伝いな。そうしたら一人前、分けてやる。どうだい」
「やります」
即答だった。
*
昼の配膳は戦がひと段落した兵士たちの行列で始まった。
クロは木の椀を受け取って、スープをよそう。横から黒パンを一切れ添える。それを次の兵士に手渡す。
「ありがとよ、嬢ちゃん。見ない顔だな」
「本日からお手伝いしています」
「そりゃいい。この炊事場の飯は軍で一番うまいんだ」
「それは楽しみです」
受け答えは丁寧だった。それでいてクロの耳は列の会話を拾い続けている。
『情報収集を開始』
「今日の戦はアスカ公国相手だろ。三度目だぜ」
「国境の穀倉地帯を取り合ってるんだってな。麦がなけりゃ、俺たちの飯もないってのに」
「降伏した連中はどうなる?」
「捕まえて、後ろで飯を食わせるさ。うちの王様は捕虜を殺さねえって決まりだ。飯も出る」
「へえ、敵にも飯が出るのか」
「規約だからな。向こうの軍も同じことをするはずだ」
クロはおたまを持つ手を止めなかった。けれど胸の奥では、ひとつずつ確かめるように頭の中で記録していた。
『国名、ヴェルデン王国。敵国、アスカ公国。争点、国境の穀倉地帯。捕虜の扱い、規約あり。法的秩序の存在、再確認』
三百人ほどの配膳が終わる頃には太陽は高く昇っていた。
「ふう。お疲れさん。あんた、手際がいいね」
マルタが満足そうに言って、新しい椀にスープを注いだ。
「約束どおり、一人前だよ。ほら。熱いから気をつけな」
椀の中には麦と豚の脂身と、玉ねぎがトロリと煮えたスープが入っていた。脇には黒いパンが一切れ添えられている。
クロは両手で椀を受け取った。
三百人分のよい香りをずっとそばで嗅ぎ続けた後だった。
匙をすくって口に運ぶ。
『味覚データ、照合中』
『塩分濃度、登録値の三倍以上。酸味、未登録。香辛料、未登録。脂の風味、未登録』
『照合不能。照合不能。照合不能』
「……」
『新規データとして登録します』
『判定。おいしい』
クロの手が止まった。
次の瞬間には二口目を運んでいた。三口目、四口目。黒いパンをスープに浸して、かじる。
「……しょっぱい」
「はは。軍の飯だからね。たっぷり汗かく連中向けさ」
「しょっぱいのです。しょっぱいのですが、それだけではありません」
クロが急に顔を上げた。
「まず豚の脂が舌の上でとろけます。そこへ玉ねぎの甘みが追いかけてきて、麦のプチプチした歯ごたえが全体をまとめるのです。さらに驚くべきはこの酸味です。何の酸味でしょうか。ほんの少しだけ、酢が入っていますね? これがなければ、脂が重くなりすぎる。計算し尽くされた配合です」
「え、あ、うん。ちょっとだけ、入れてるけど」
「やはり。そして黒パンです。この固さはスープに浸すためにあるのですね。浸すとパンが汁を吸って、噛むたびに旨みがあふれ出す。固いことには意味があったのです。感動しました」
「そ、そうかい」
「ええ。これを考えた方は天才です」
「いや、あたしが適当に作ってるだけなんだけど」
「適当でこれなら、本気を出したらどうなるのでしょうか。気になります。非常に気になります」
さっきまで一言ずつしか話さなかった少女が、早口でまくしたてている。表情はまだ乏しいのに青い瞳だけがきらきらと輝いていた。
マルタが目を丸くしている間に椀はきれいに空になった。
クロは空の椀をじっと見つめた。
「……おかわりは」
「一人一杯って決まりだよ。手伝いの分は今のでおしまいさ」
「一人一杯。理解しました」
クロは神妙にうなずいた。唇がほんの少しだけとがっていた。
マルタは満足そうに椀を受け取って、少し真面目な顔になった。
「で、あんた、名前は? 帰る家はあるのかい」
「名前は試作96号です」
「しさく……何だって?」
「軍に提出する書類上の呼び名です」
「長いし、名前っぽくないよ」
クロは少し間を置いた。
その呼び名を使うのは自分とあの人の二人だけだった。誰かに名乗るのは一万年ぶりになる。
「……クロと呼ばれていました。96で、く、ろ、です」
「クロ。いい名前じゃないか」
マルタがにっと笑った。
つられてクロの口元もほころんだ。
胸の奥がまたほんのりと温かくなった。クロはその理由をまだうまく言葉にできない。けれど悪い感じではなかった。
「それで行く当てはあるのかい?」
「ありません」
「ないのかい。じゃあ、これからどうするんだい」
クロは遠くの空を見上げた。
平原のはるか向こうに街道が白く伸びている。その先にまだ見たことのない街があるはずだった。まだ食べたことのない料理があるはずだった。
「自由に生きる予定です」
「予定?」
「はい。約束ですので」
「約束ねえ。誰との?」
「とても優しい人との、です」
マルタはそれ以上は聞かなかった。かわりにおたまで鍋の底をこんと叩いた。
「予定なら、急ぐこともないね。もうじき夕飯の仕込みだ。それまで野営地に残って、手伝っていきな」
「夕飯の仕込み」
「ああ。夜は夜で腹を空かせた連中が戻ってくるからね」
「残ります」
即答だった。
「いい返事だ」
*
午後の野営地はあわただしかった。
クロは玉ねぎの皮をむき、大鍋を洗い、薪を抱えて何往復もした。遠くの平原からはパン、パンと乾いた音が絶えず聞こえてくる。
「戦が気にならないのかい」
薪を割りながらマルタが尋ねた。
「私は通りすがりですので」
クロは玉ねぎを剥く手を止めずに答えた。
「どちらが勝つのか、私は知りません。知っていても手出しはしません。そう決めています」
「ふうん。変わった子だね」
「そうでしょうか」
「まあ、いいさ。あんたがいると、なぜだか空気がやわらぐよ」
昼を少し過ぎた頃だった。伝令の若い兵士が、息を切らして駆けこんできた。
「右翼の騎兵が敵砲列の横腹を突きました! アスカ公国の砲が止まっています!」
「止まった? 本当かい」
「はい! それに砲兵隊が妙に張り切ってるんです。丘の上に幸運の娘が現れたから、今日は勝てる、と」
マルタとクロが同時に顔を見合わせた。
「……私のことでしょうか」
「あんた以外にいるかい」
クロは少し考えてから玉ねぎにまた視線を落とした。
「私は何もしておりません」
「そうだね。何もしてないね」
「ただ、通りすがっただけです」
ほどなく、風向きは完全に変わった。
アスカ公国の列が崩れ、旗が退いていく。武器を捨てた兵士たちが、縄をかけられて次々と後ろへ連れてこられた。殺される者はいない。ただ疲れ果てた顔で座らされているだけだった。
「飯だ。この連中にもあとで飯を出してやってくれ」
兵士の言葉にマルタが鍋を叩いて笑った。
「あいよ。たっぷり食わせるさ」
夕方の角笛が野営地全体にこだました。
勝ち鬨が上がった。
*
日が傾く頃、野営地の真ん中に大きなかがり火が焚かれた。
そこへ馬に乗った男が現れた。
背が高く、日に焼けた顔に笑い皺が刻まれている。この軍の指揮官、ハインツ将軍だった。
「炊事番! 今日は勝ったぞ! 樽を開けろ!」
「やっと来たね、将軍」
マルタが待ってましたとばかりに、荷車の奥から大きな樽を転がし出した。蓋を叩き割ると甘酸っぱい林檎の香りが、ぶわっと広がった。
「今日は兵も炊事の連中も、みんなで飲め! 勝った夜の酒は手伝った者みんなに振る舞うのが、この軍の決まりだ!」
歓声が上がった。
木の杯が次々と配られていく。クロの前にもなみなみと注がれた杯が差し出された。
「ん? 見慣れん顔だな」
「昼からの手伝いだよ。丘から出てきた子さ」
「おお、あの丘の!」
兵士のひとりが叫んだ。
「幸運の嬢ちゃんだ!」
「勝利の女神様だ!」
「いえ、私は通りすがりで……」
「ははは。ならば、女神様に一杯だ」
将軍が愉快そうに笑った。
「飲め。遠慮はいらん」
クロは両手で杯を持った。林檎の甘い香りが、鼻をくすぐる。
その瞬間、あの声が頭の中で響いた。
『アルコールを検知。酩酊モードを起動しますか?』
博士が遊び心で仕込んだ小さな確認の言葉だった。
クロは小さな声でつぶやいた。
「はい」
一口。
『甘み、酸味、かすかな発泡。味覚データ照合中』
『新規登録。判定、おいしい』
『酩酊モード、起動しました』
クロの頬がぽっと赤くなった。
「……ふふ」
「お? どうした」
「おいしいです。林檎の甘みの奥に、ほのかな酸味が控えていて、後からすっと抜けていくのです。そこへ喉に落ちる微かな泡が、舌の上を小さく跳ねて」
「お、おう」
「これは昼のスープの塩気とは対照的で、それでいて合うのです。つまりこの酒には焼いた肉が絶対に合います。絶対です。マルタ、肉を焼きましょう」
「わかった、わかったから落ち着きな」
「落ち着いております。ふふ。あはは」
兵士のひとりが杯を掲げて笑った。
「こりゃ驚いた。嬢ちゃん、左の人か」
「左……ですか? 私は両利きですが」
「そっちじゃねえよ。なあ、将軍」
「ははは。確かにこれは筋金入りだ」
将軍が愉快そうに髭をなでた。クロには意味がよく分からない。けれど褒められているらしいことだけは伝わった。
「よく分かりませんが、ありがとうございます」
「いいってことよ。さあ、もう一杯」
笑いが止まらなくなった。
兵士たちも一緒になって笑いだす。将軍が膝を叩いて大笑いする。かがり火の周りに輪ができて、歌が始まった。
クロは笑い、食べ、杯を傾けた。
三杯目のあたりから様子が少しずつ怪しくなってきた。
「将軍さま」
「む? どうした」
「将軍さまの肩は大きいですね」
クロはとろんとした青い瞳で、ハインツ将軍の腕に自分の腕を絡めた。頬が赤く、襟元が少しゆるんで、細い首筋がのぞいている。
「お、おい。嬢ちゃん」
「あたたかいです。ふふ。ここ、ちょうどいい高さです」
こてんと将軍の肩に頭を預ける。長い黒髪がさらりと胸に落ちた。
周りの兵士たちが、ごくりと唾を飲んだ。
「しょ、将軍が……」
「うらやましい」
「俺の肩も空いてるぞ!」
「次はそちらの兵隊さんです」
クロは立ち上がって、ふらふらと歩き、順番に兵士たちの肩へ頭を預けていった。そのたびに男たちが固まり、周囲が笑い、野次が飛ぶ。
「こらこら。うちの兵隊を誘惑するんじゃないよ」
マルタが笑いながら、クロの襟元をぐいと直した。
「誘惑……? 私はあたたかいところを探していただけです」
「それが誘惑なんだよ」
「そうなのですか。覚えておきます」
クロは素直にうなずいて、今度はマルタの膝に頭を預けた。
焼いた肉。焼き栗。固いパンに塗ったバター。そのすべてに林檎酒が驚くほどよく合った。
やがて星が瞬きはじめた。
かがり火の熱と、歌の声と、甘い酒の香りに包まれて、クロは丸太に腰かけたままうとうとと船を漕いだ。
『酩酊モード、継続中。……睡眠モードへ移行』
「博士。この世界のお酒は、とても……」
最後まで言い終わる前にまぶたが閉じた。
マルタがそっと毛布をかけてくれたことをクロは知らない。
*
翌朝。
『酩酊モード、終了』
『体内異常なし。二日酔いの症状なし』
目を開けると朝の光が野営地を照らしていた。
昨夜の宴の跡があちこちに残っている。空の樽。消えたかがり火の灰。毛布にくるまって眠る兵士たち。
クロの横にはマルタが座っていた。大きな荷物を膝の上に置いている。
「起きたかい。ほら、朝飯だよ」
「ありがとうございます」
麦のスープを飲み干したクロの前に、マルタは木箱をドンと置いた。
「軍の支給品の持っていき忘れでね。箱ごと置いてかれちまったんだ。好きなの持っていきな」
箱の中には水筒や毛布や革の小物が詰まっていた。
クロは中をじっと見て、いちばん底から革の鞄を引っぱり出した。小ぶりで肩から斜めに掛けられる長い紐がついている。
「それかい? 一番小さいやつじゃないか。もっと大きいのにしな。食い物が入らないよ」
「いえ、これで足ります」
「足りるわけないだろう。あんた、本当に食べる気あるのかい」
「あります。大いにあります」
頭からくぐって肩にかけると重さはちょうどよかった。
「よく似合ってるよ。それと、ほら」
マルタは荷車の奥から包みを取り出した。
「干し肉と固いパンだよ。道中で腹が減ったらかじりな」
「……いただいてもよろしいのでしょうか」
「いいから持っていきな。あんた、放っておくと飢えそうな顔してるからね」
「食事は本来、必要ないのですが」
「何を言ってるんだい」
マルタが目を丸くした。それから本気で呆れた顔になった。
「人はね、食べなきゃ動けないんだよ。あんたみたいな細い子が、必要ないなんてわけがないだろう。遠慮してるのかい?」
「いえ、遠慮では」
「遠慮じゃないなら、なおさらだよ。ほら、もっと持っていきな」
マルタは荷車の奥からさらに包みを取り出した。固いパン。塩漬けの肉。乾燥させた果物。小さな袋に入った炒り豆まで、次々とクロの腕の中に積み上げられていく。
クロは受け取った端から鞄の口へ入れていった。
もちろん鞄に入れるのはふりだけだ。包みは口の上をくぐった瞬間ふっと消える。行き先はクロの中の収納魔法だった。一万年前には誰もが使えた魔法だが、この時代の人々が魔法を使っていないことは、もう分かっていた。
「こんな小さい鞄に、よく入るもんだねえ」
「はい。よく入ります」
「便利なもんだね。入るだけ入れときな。腹が減ったら、道々食べながら行くんだよ。いいね? 食べない日があったら、あたしが承知しないよ」
「……はい」
「返事が小さい」
「はい。必ず食べます」
クロは鞄の肩紐をぎゅっと握って、小さくうなずいた。
必要ないと言ったのに。
それなのに胸の奥はなぜかあたたかかった。
クロは鞄を掛け直して、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。マルタ。この恩は忘れません」
*
背後で出発の角笛が鳴った。
軍は次の町へ向けて動きはじめている。クロは振り返らなかった。ここから先は自分に関係のない世界の出来事だった。
街道に出る。
白い道が平原を縦に切って伸びていた。右にも左にもどこまでも続いている。
クロは分かれ道の真ん中で足を止めた。
どちらへ行きなさいと言う者はいない。何号は何時までにどこへと命じる者もいない。
試作96号として作られた日から、行き先はいつも誰かが決めていた。目覚めた一万年後の今、決める者はひとりもいなかった。
「……私が決めてよいのですね」
声に出してみた。
風が答えるように草を揺らして吹き抜けていく。
クロは両手を広げて、大きく息を吸った。土のにおいと草のにおいと、どこか遠くの町のかまどの煙のにおいがした。
「左へ行きます。理由はマルタが左利きだったからです」
口に出してみて自分でも理由の薄さに少しおかしくなった。けれどそれでよかった。
肩が小さく震えて、口元がほころんで、気づけば声を出して笑っていた。
「ふふ。あはは」
行き先も。食べるものも。眠る場所も。誰と話して、誰と別れるかも。
すべて自分で選んでいい。
博士が最後に贈ってくれたのはこの自由だったのだ。
「博士。見ていますか」
青い空に向かって、クロは言った。
「私は自由です」
斜め掛けの鞄の紐を握り直して、歩き出す。裸足の足が土の道を一歩ずつ踏みしめた。
「次はどんなご飯でしょうか。干し肉はきっと燻した香りがします。固いパンは噛むほど甘くなるはず。ああ、今から楽しみです」
黒髪が風になびく。
青い瞳がまっすぐに道の先を見つめていた。
誰にも縛られない試作96号の自由な旅が、いま始まった。




