『消えた恋人』3
夕方。三人は、廃工場へ向かった。
長く使われていない建物の中は、闇が積もったように暗い。錆びた鉄の匂いと、湿った埃の匂いが混ざり合い、喉の奥にざらついた感触を残す。天井の高い場所で、割れた窓ガラスが夕陽を細く反射していた。
足音が、やけに大きく反響する。誰かに聞かれている。そんな感覚が、拭えなかった。
そのとき――ガコン。工場の奥で、金属の擦れる音が響いた。続けて、いくつもの機械が起動する音。低い唸りが、床を這うように伝わってくる。
暗闇の奥から、巨大な影が姿を現した。鋼鉄の装甲。太く厚い四肢。背から伸びる、機械式の関節部品。胸部には、半透明の装甲越しに、人が座る操縦席らしきものが見えている。
「なんだよ……それ」
澪の声が、震えた。男たちが、笑う。
「悪いな。俺たちじゃ勝てないんでね。だから、試作品を持ってきた」
巨大な機体が、一歩踏み出した。その一歩だけで、床が震え、埃が舞い上がる。
「ローフェイズなら、魔法も使えないだろ?」
その声には、確信があった。
だが、フェルリスは笑わなかった。まるで、その台詞を待っていたかのように。
フェルリスが、三枝へ振り返る。
「お前は、離れた場所で隠れてろ」
「でも……」
「アタシたちが片付けるまで、絶対に出てくるな。狙われたら、足手まといだ」
三枝が、物陰へ身を隠す。
澪は、フェルリスの隣に並んだ。喉が渇いている。手のひらが、じっとりと湿っていた。
「……フェルさん」
「怖ぇか?」
「……うん」
「そうか」
フェルリスは、笑った。
「なら、ちょうどいい。怖くても動けるなら、それで十分だ」
その言葉は、慰めではなかった。ただの事実として、そこに置かれていた。
フェルリスは、左腕のアークレットへ視線を落とす。淡い光が滲み、左右の手に、等身大の双剣が姿を現した。
「これで、少しは話しやすくなったな」
男たちの笑みが、僅かに強張るのを、澪は見た。
機体が、拳を振り上げた。
二人は左右へ飛び退く。
拳が着地した場所で、コンクリートの床が陥没し、破片が跳ねた。
だがフェルリスは、すでに機体の懐へ潜り込んでいる。ククリナイフを、装甲の継ぎ目へ叩き込んだ。
――甲高い音とともに、火花が散る。
「硬ぇな!」
機体の左腕が、横薙ぎに振られる。フェルリスが躱すと、拳は背後の鉄骨を歪ませて止まった。
澪は、拳を握った。
だが、まともに殴っても、この装甲は傷つかない。機体の左手には、いつの間にか剣まで握られていた。
その一撃を受け止めたフェルリスの足が、床へ沈み込む。
「フェルさん!」
「こっちを見るな! 動け!」
澪は、機体の背後へ回り込もうとした。
だが次の瞬間、機体が向きを変える。反応する間もなく、拳が澪を捉えた。
「ぐあっ!」
背中から、床へ叩きつけられる。息が、一瞬止まった。視界の端で、剣が振り下ろされる。
澪は、転がって避けた。あと少し遅ければ、身体を貫かれていた。恐怖が全身をかける。魔法は使えない。あるのは、自分の身体だけだ。
逃げなければ。頭の中では、そう分かっている。なのに、身体が動かない。
そのとき、フェルリスが横から飛び込んだ。
「よそ見してんじゃねぇ!」
双剣が、機体の肩へ叩き込まれる。
「今だ、澪!」
澪は、立ち上がった。足が、震えている。
それでも――動いた。
狙うのは、装甲そのものではない。フェルリスが刃を突き立てた、肩の関節。
「これなら……!」
拳が、関節へ叩き込まれる。フェルリスが、刃を捻った。
「そこだ!」
装甲の隙間に、刃が食い込む。機体の左腕が、痙攣するように震えた。握られていた剣が、金属音を立てて床へ落ちる。
だが、右拳は、まだ生きていた。
フェルリスは、機体を見回した。肩。腕。脚。そして――胸部。
半透明の装甲の奥、操縦席が見えている。
「……あそこだ」
「操縦席?」
「周りの装甲より薄い。ゲームでのボス戦の定番だ」
フェルリスは、双剣をアークレットへ戻した。
「澪。拳一つぐらい、潰れてもいいよな?」
「……え?」
「種族の特権ってやつを、使うか」
「特権?」
「ウェアウルフと吸血鬼のパワーだよ」
「……僕は半分だけなんですけど」
「半分ありゃ十分だろ。それに――お前は、速ぇだろ」
二人は、機体を見据える。
「避けて、近づく。それだけだ」
「分かりました」
声は、まだ震えていた。けれど、足は震えていなかった。
機体が、拳を引く。空気が、それだけで震えた。
「来るぞ」
二人は、同時に走った。
拳が床を叩き、コンクリートが爆ぜる。
澪は側面を駆け抜け、次々と迫る拳を紙一重で躱していく。頬を拳が掠め、風圧だけで皮膚が裂けた。熱い、と思う間もなく、それでも止まらない。
「澪!」
フェルリスの声。
「こっちだ!」
機体の視線が、フェルリスへ向く。
拳が、振り下ろされた。
フェルリスは、真正面から踏み込む。
拳が、迫る。
――当たる。そう思った瞬間、フェルリスの身体が沈んだ。
拳が、頭上を通り過ぎ、そのまま懐へ潜り込んだ。
「遅ぇ!」
全身の力を乗せた拳が、機体の胸部へ叩き込まれる。
半透明の装甲に亀裂が走ると、操縦席の男は目を見開いた。
「馬鹿な……!」
フェルリスの拳から、血が滲んでいた。
それでも、彼女は笑った。
「よし。澪!」
「分かった!」
澪が、続く。
狙うのは、フェルリスが残した亀裂。
「――いけぇっ!」
拳が、叩き込まれた。激しい音と共に半透明の装甲が、砕け散る。
操縦席の男が、呆然と澪を見上げた。
その顔へ、フェルリスの拳が飛ぶ。
「寝てろ」
男はあっさりと意識を失った。同時に機体から力が抜け、巨大な身体が、ゆっくりと膝をついていく。
動きが止まると静寂が、戻った。
澪は、自分の拳を見下ろす。
「……痛い」
「そりゃそうだ」
フェルリスの拳も、血で赤く染まっていた。
「でも、勝ったな」
「……そうですね」
「次は、もう少し痛くない方法を考えたいかな」
「贅沢言うな」
フェルリスは、倒れた操縦者の襟を掴み上げ、端末を取り出す。
「良い話し合いができたぞ」
『……』
「お前の部下が、返済金額は三百万に値下げしてくれたぜ。それで、この話は終わりだ。彼女にも手を出すな」
『……いいだろう』
「代わりに明日中に払ってやる。お前らとはさっさと縁を切りたいからな。それと、破ったら、今度は機械じゃ済まさねぇぞ」
通話が、切れる。
「……明日って、大丈夫なんですか?」
「任せろ。借りる」
「誰から?」
「友達だ」
そういうとフェルリスは電話を掛けた。
数コール後、明るく華やかな声が返ってきた。
『もしもし、フェルちゃん!? うそ、本物!?』
「おう。久しぶり」
『久しぶりじゃないって! それで、どうしたの?』
「金貸してくれ」
『いいわよ』
「……即答かよ」
『フェルちゃんの頼みだもの。数十億とかだとちょっと簡単にはいかないけど』
「そんないらねぇよ。三百万だ」
『それぐらいならすぐに用意する』
「お前、相変わらず金持ちだな」
『だって、私、お嬢様ですもの。ふふふ』
すると彼女は、何かを思いついたように声を弾ませる。
『じゃあ、その代わりに結婚してもらおっかなー』
「なんでだよ」
『一生、私が養ってあげるのに』
「別に、金に困ってねーよ」
『そういうことじゃないんだけどな。まっ、今度、一緒に遊んでくれたらいいよ』
「それで三百万? 随分と高く見積もられてんなアタシは」
『安い方だって』
「友達と遊ぶのに金なんていらねぇよ。金は返す。暇な時に、連絡もするさ」
『分かった。楽しみにしてる。あと、親友ね』
澪は、何とも言えない顔で通話を終えたフェルリスを見た。
「今のが……?」
「ああ。昔馴染みだ」
「なんか、すごい人だったなぁ」
「昔から、ああいう奴だ」
三枝が、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼はいい。金は、お前がこれから返せ」
「……はい」
「働いて、生活して、それで余った分を少しずつ返せ」
「必ず、返します」
そしてフェルリスは、人差し指を立てた。
「もう、一人で勝手に消えるな」
「……はい」
「彼女に、ちゃんと話せ」
「はい」
「一週間も心配させた分、たっぷり怒られてこい」
三枝は、苦笑した。
「……そうします」
*
翌日。三枝は、約束通り借金取りへ三百万を返した。残りの立て替え分は、毎月少しずつフェルリスを通して返していくことになった。
そして――三枝は、恋人と再会した。
「……拓真」
「ごめん。何も言わずに、いなくなって」
「だからって、勝手に消えるの?」
女性の声は、震えていた。
「私が、どれだけ心配したと思ってるの? 警察にも相談した。あなたが死んだんじゃないかって……ずっと、怖かった」
「……ごめん」
「だったら、私に相談してよ」
女性は、涙を拭い、三枝の手を取った。
「恋人なんだから。一人で勝手に決めないで。借金のことも、これからのことも、一緒に考えるから」
「……でも、迷惑が」
「迷惑なら、最初から探偵事務所には行ってない」
三枝は、目を見開いた。
「だから、もう逃げないで」
「……分かった。約束する」
二人は、離れていた一週間を埋めるように、抱き締め合った。
少し離れた場所で、それを見ていた澪が微笑む。
「……よかったですね」
「ああ」
フェルリスも、二人を眺めていた。
「めんどくせぇ話だったけどな」
「でも、解決しました」
「終わりよけりゃ、それでいいか」
フェルリスは、血の滲んだ拳を見下ろした。
「まあ、三百万の借金が増えたけどな」
「それ、解決したって言うんでしょうか」
「三枝が返すんだから、解決だろ」
「本当に、返してくれますかね」
「返すさ」
フェルリスは、迷いなく答えた。
「返す気がある奴の、目だった」
「分かるんですか?」
「勘だ」
そして、二人は歩き始める。
「それに、あいつはもう一人じゃねぇ」
視線の先では、三枝と恋人が並んで歩いていた。
今度は、どちらも離れない。
*
「フェルさん」
「なんだ?」
「その友人の方、また会いたいって言ってましたよね」
「ああ」
「結婚してもいいっていうのは……」
「本気だろうな」
「どうするんですか?」
「どうもしねぇよ」
「でも、かなり好きなんですよね?」
「好きだろうな」
「フェルさんは?」
フェルリスは、少しだけ黙った。
「……昔からの友人だ。いや、親友か」
「答えになってません」
「うるせぇな」
そう言って澪の頭を軽く小突いた。
「余計なこと考えてねぇで、次の依頼の心配でもしてろ」
「次の依頼って、もう来るんですか?」
「モノクルだぞ」
フェルリスは、事務所のある方向を見た。
「暇な時の方が、多いですけどね」
「すぐに、遊んでやれそうだな」
二人は、現異区域の雑踏へ、ゆっくりと溶けていった。




