『消えた恋人』2
まず二人が向かったのは、依頼人の恋人――三枝拓真の勤務先、町工場だった。油と鉄の匂いが染みついた建物の中で、同僚の男が困ったように答えた。
「少し前から、様子がおかしかったんだよな」
電話が掛かってくるたび、三枝は外へ出て、相手を確かめると顔色を変えていたという。一度だけ、こう言っているのを聞いた。
――今月中に払う。
さらに、黒いコートを着た背の高い男が、三枝を訪ねてきたこともあったらしい。短髪で、左頬に古い傷のある男。
「『次はない』とか、言ってた気がする」
その日から、三枝は目に見えて怯えるようになったという。
「借金は、ほぼ確定だな」
「うん。それも、普通の金融屋じゃなさそう」
二人は次に、三枝の自宅へ向かった。
部屋には家具も衣類も残されたままだった。冷蔵庫を開けると、食べかけの惣菜がそのまま入っている。
「本当に逃げたなら、もう少し持っていくだろ」
「だよね」
フェルリスが部屋を調べていると、机の奥から一枚の封筒が出てきた。
中の紙には、金額と期日。そして――一行だけ、走り書きのような文字が添えられていた。
**払えないなら、女に払ってもらう。**
澪の指が、紙の上で止まった。喉の奥が、急に狭くなる。
「彼女も……狙われてる」
その瞬間だった。玄関の外で、足音が止まった。
二人が、同時に振り向く。
――一人。いや。二人分の気配。
ドアノブが、ゆっくりと回る。鍵は掛かっている。
次の瞬間――ガンッ! 扉が、蹴り飛ばされた。
現れた男は、黒いコート、短い髪、左頬の古い傷。工場で聞いた特徴と、寸分違わず一致していた。
「三枝拓真を探してるんだろ?」
「……お前ら、何者だ?」
「余計なことに首を突っ込むな」
「僕ら、探偵事務所の者でして。依頼を受けて、探してるだけです」
「その男には、用がある」
「借金か」
「そうだ。本人が返せないなら、別の方法を考えるだけだ」
その言葉にフェルリスの目が、鋭さを増す。
「女を狙うってことか?」
「俺たちはまだ、何もしてない」
「これから、する気だろ」
「だとしたらどうする?」
「依頼人だ。守るしかないだろ」
男が、拳を構えた。
「部外者が口を出すと、痛い目みるぞ」
次の瞬間、拳が振り抜かれた。
フェルリスは紙一重で躱し、伸びた腕を掴む。そのまま身体を捻り、床へ叩きつけた。鈍い音が、狭い部屋に響く。
もう一人が、澪へ飛びかかった。その瞬間、身体が強張るのを感じた。
やっぱり、怖い。心臓が、耳の奥で鳴っている。
けれど――その足は、逃げなかった。
「……っ!」
拳を受け止める。骨が軋むような痛みが、腕を駆け上がった。それでも押し返す。体勢を崩した相手の腹へ、拳を叩き込んだ。
「ぐぁっ!」
男が、壁へ吹き飛ぶ。
「澪!」
「大丈夫です!」
立ち上がろうとした男へ、フェルリスの拳が飛んだ。
「遅ぇよ」
顎を捉えた一撃で、男は床へ沈んだ。
部屋に、静寂が戻る。
「……終わった?」
「みてぇだな」
そのとき、倒れた男のポケットで、端末が着信を告げた。登録されていない番号。
「出てみるか」
フェルリスが、通話を取る。
『彼女に手を出すなよ! あいつには何もするな!』
真っ先に叫ぶような声が、耳に飛び込んできた。
「……うるせぇな。落ち着け」
『彼女は関係ないだろ!』
「アタシは借金取りじゃねぇ。探偵事務所モノクルの人間だ。三枝拓真か?」
『探偵……? ……ああ、そうだ』
「彼女は、お前が突然いなくなったから心配してる。お前を探してくれって、アタシたちに頼んだんだよ」
『……彼女が?』
「ああ。安心しろ、怪我もない」
電話の向こうで、張り詰めていた何かが、静かに緩んだ気配がした。
「一度会おう」
『でも、俺のところには借金取りが……』
「そいつらなら、今は伸びてる」
『……あんたがやったのか?』
「そうだ」
フェルリスは、倒れている男たちを見下ろした。
「今すぐ逃げる必要はねぇ。少なくとも、アタシたちがいる間はな」
三枝は、しばらく沈黙したあと、会うことを承諾した。
*
待ち合わせ場所に現れた三枝は、痩せて、ひどく疲れた顔をした男だった。頬がこけ、目の下の隈は依頼人の女性よりも濃い。
「お前、どうして逃げた?」
「……彼女を、巻き込みたくなかった」
「借金か?」
「はい」
借金は、最初三百万だった。だが利子が膨らみ、今では五百万に届いている。
「時間さえあれば……絶対に返します」
「だから逃げた?」
「彼女にだけは、迷惑を掛けたくなかった」
澪は、三枝を見つめた。
「彼女のこと、本当に大事なんですね」
「……はい。だからこそ、離れたほうがいいと思ったんです」
フェルリスが、大きく息を吐く。
「本当に馬鹿だな、お前」
「……はい」
「一つ聞く。お前、彼女と別れたいのか?」
「そんなわけ、ありません」
「じゃあ、戻れ」
「でも――」
「借金は返せばいい。返す気があるなら、話はできる。一人で抱え込んで、勝手に消えるより、よっぽどマシだ」
そのとき、フェルリスのポケットで借金取りの端末が鳴った。
『うちの連中を、やったそうだな』
低い、粘着質な男の声だった。
「手ぇ出してきたのは、そっちだろ」
『三枝は、そこにいるか?』
「いる。先に言っとく。こいつには、返済する意思がある」
『なら、今すぐに返せ』
「まぁ待て。五百万を返す。それで終わりにしろ」
『そんな脅しが、通用すると思ってるのか?』
「面倒事にしたいのか? こっちは色々と方法があるぞ。もちろん、合法のもな」
沈黙。やがて、男は交渉に応じると言った。
「場所は?」
指定されたのは、街の外れにある廃工場だった。
「罠なんじゃ?」
「だろうな」
フェルリスが、拳を握る。
「だから、行くんだよ」




