第2話 『消えた恋人』1
朝の探偵事務所モノクルは、まだ静かだった。
窓から差し込む光が、埃の粒子をわずかに撫でていく。壁際に並んだ書棚と、隅で唸る空調の音。狭くはないが、決して立派とも言えない事務所――そこに漂う空気だけは、いつも通り緩んでいた。
リゼリア・グレイスは、六本の腕を絶え間なく動かしていた。
長い黒髪を背に流し、眼鏡の奥の瞳を三台のモニターへ向けたまま、左の腕でキーボードを叩き、隣の腕で会計データを打ち込む。別の二本が取引先から届いた電子書類に目を通し、残りの二本が端末を操作して、各企業から請け負った雑務を淡々とさばいていく。
入力。確認。整理。返信。
六本の腕がそれぞれ違う仕事をこなしながら、リゼリアはひとつひとつの処理を、機械のように正確に、しかし決して機械のようには見えない滑らかな動作で進めていた。
その一方――事務所の奥では、所長の榊原恒一がソファに横たわっている。
無造作に伸びた黒髪。剃り忘れた無精髭。長い身体を投げ出し、腕を目の上に乗せて、完全に眠りに落ちていた。テーブルの上には、飲みかけの珈琲が湯気も立てずに置かれている。
リゼリアは一度だけ、そちらへ視線を流した。
「……昨日お願いした書類、まだ手つかずなんですけどね」
返事はない。当然だった。
少し離れたソファでは、フェルリスが背もたれに身を預けていた。褐色の肌に、赤茶けた髪。獣の耳を隠す気配もなく晒し、気だるげな姿勢とは裏腹に、瞳だけは鋭く周囲を捉えている。
「フェルさん」
リゼリアが顔を上げる。
「昨日の食事代ですが、経費では落とせません」
「……いきなり何の話だよ」
「昨日、凛さんとフェルさんが依頼先の近くで食べた食事の代金です。依頼内容を考えても、調査に必要な支出とは思えませんので」
「腹が減ったから食っただけだろ」
「はい。ですから、経費にはできません」
「でも仕事中だったじゃねぇか」
「仕事中に食事をしたことと、その代金が経費になることは、別の話です」
「所長に聞いてみろよ」
フェルリスが榊原を見る。榊原は、相変わらず眠っていた。
「所長は寝ています」
「起こせばいいだろ」
「起こしても、どうせ『あと五分』としか言わないでしょうから」
「じゃあ、その五分の間に経費で落としてくれよ」
「却下します」
「即答かよ」
「会計処理に、私情は挟みません」
「私情じゃねぇ。必要経費だ」
「では、その食事が調査にどう必要だったのか、説明してください」
「……腹が減ってた」
「それは、フェルさんの事情です」
「凛も食ってたぞ」
「凛さんの分も同じです」
「……ケチ」
「健全な経理です」
フェルリスが、これ見よがしに息を吐く。
「アタシ、もう二度と領収書なんか出さねぇからな」
「それはそれで困ります。提出されなければ、精算できませんから」
「どっちにしろ逃げられねぇじゃねぇか」
「はい」
リゼリアは涼しい顔で答えた。その間も、六本の腕は一度たりとも止まらない。
そこへ、扉が開いた。
「おはようございます」
入ってきたのは澪だった。
「おはよう、フェルさん。リゼリアさん」
「おー」
「おはようございます、澪さん」
澪はソファへ目を向ける。
「……所長、寝てるんですか?」
「朝からずっとです」
「起こしたほうが……」
「大丈夫です。どうせ起こしても、仕事をするとは限りませんから」
「それは……」
澪が困ったように笑う。
モノクルの朝は、いつもこんなものだった。探偵事務所というには、あまりにも緊張感がない。
だが――その緩んだ空気は、一本の電話で終わりを告げた。
「探偵事務所モノクルです」
リゼリアの声が、僅かに硬くなる。
「人探しの依頼です。恋人が、いなくなったそうです」
それから間もなく、依頼人の女性が事務所を訪れた。
二十代半ばほどだろうか。服も髪もきちんと整えられているのに、その顔には隠しきれない疲労の色が浮かんでいる。目の下の隈は、化粧でも消しきれていなかった。
「お願いします。彼を……探してください」
「彼、というのは?」
「私の恋人です。突然、連絡が取れなくなりました」
最後に会ったのは一週間前。その翌日から、電話にも出ず、メッセージにも返事がない。勤務先にも、自宅にも姿はなかったという。
女性は、震える指で一枚の紙を差し出した。短い文章だけが、走り書きのように記されている。
――もう俺のことは忘れてくれ。
「警察には?」
「相談しました。でも、事件性がないから、今の段階では積極的に捜査できないって……」
女性は俯く。膝の上で握られた指先が、白くなっていた。
澪が、静かに尋ねる。
「あなたは、彼が自分から消えたと思っていますか?」
「……思いません」
迷いのない答えだった。
「彼は、そんなことをする人じゃありません」
「でも、忘れてくれって書いてあります」
「だからこそです」
女性は、強く指を絡めた。
「彼が本当に私を嫌いになったなら、直接そう言う人です。こんな、逃げるみたいなことをする人じゃない」
フェルリスが口を開く。
「最近、何か変わったことはなかったか? 仕事とか、金とか、人間関係とか」
「……そういえば。彼、私と付き合う前は、ギャンブルをしていたんです」
「借金か」
「たぶん……。詳しくは話してくれませんでした。でも、何度か、知らない人から電話が掛かってきていて」
「借金だな」
フェルリスの目が、僅かに細くなる。
そのとき、榊原がようやく身を起こした。
「……朝か?」
「もう、昼に近いです」
「そうか」
榊原は、冷めた珈琲を一口飲んだ。
「……まずいな」
「冷めていますから」
「じゃあ、淹れ直してくれ」
「ご自分でどうぞ」
「こっちも冷たいのか」
「経費にはしませんよ」
「こいつは備品だから経費だろ」
「その通りですね。失礼しました」
その様子を見ていたフェルリスが、感心したように呟く。
「リゼリアを負かすとはな。流石、所長だ」
だが榊原は、次の瞬間、依頼人の女性をじっと見た。
「それで?」
声が、僅かに低くなる。
「あんた誰だ?」
「所長。依頼人です」
「そうか。なら、お前ら受けろよ」
それだけ言うと、榊原は再びソファへ身体を預けた。
「少し寝る」
「今、起きたばかりですよね?」
「起きたから眠くなったんだ」
「意味が分かりません」
数秒もしないうちに、寝息が聞こえ始める。
依頼人が、不安そうな声で尋ねた。
「あの……大丈夫なんでしょうか、この事務所」
「大丈夫です」
リゼリアが、即答した。
「所長がああいう人なのは、いつものことですから」
澪は、女性へ向き直る。
「……僕たちが探します。彼がどこにいるのか、何があったのか。できる限り調べます」
「そんじゃ、この件はアタシらでやるか」
フェルリスが立ち上がる。
「借金絡みなら、少し面倒な連中が出てくるかもしれねぇけどな」
「それでもお願いします……」
女性は、深く頭を下げた。
こうして、依頼は始まった。




