『凛と猫』2
二人はまた猫を探し始めた。野良猫を見つけるたび、写真と見比べる。
一匹目。
「違うね」
「うん」
二匹目。
「これも違う」
「惜しくない?」
「全然」
三匹目。
「……似てる」
「似てないよ」
「白黒なのに」
「白黒なら全部同じに見えるの?」
「ごめん」
四匹目。
「これは?」
「違う」
「即答だね」
「顔が全然違うもん」
「猫の顔ってそんなに分かる?」
「分かるよ」
「すごいなあ」
「君が分からなすぎるだけ」
「僕、猫飼ったことないし」
「私もないよ」
「じゃあ、なんで分かるの」
「なんとなく」
「雑だなあ」
「ふふ」
そんなやり取りをしながら、二人は商店街へ入った。
昔ながらの商店街だった。八百屋の店先には色とりどりの野菜が並び、パン屋からは焼きたての香りが漂ってくる。
学生たちが制服姿で歩いている。ドワーフの職人らしい男が、店先で工具を眺めている。大きな角を持つ魔族の青年が八百屋で値段を聞き、人間の老人と小さなゴブリンの店主が、店先で世間話をしている。頭部が鳥のような形をした種族がパンを買い、竜人の老人がベンチに座り、新聞を読んでいる。
種族も姿もばらばらだった。けれど、ここで暮らしているという一点だけは同じだった。
商店街の上には電子看板が並び、店舗の前では自動販売機が光っている。車のエンジン音。電子音。店員の呼び込み。笑い声。
それらが混ざり合い、どこにでもある街の一角を作っていた。
歩きながら、澪は商店街の景色を眺めていた。
その時だった。前触れはなかった。
時計塔の鐘も鳴らず、街頭の表示が切り替わることもない。スマートフォンにも、スイッチを知らせる通知は届いていなかった。
それなのに、突然、商店街の景色が歪んだ。
「……え?」
目の前の看板が、波打つ水面のように揺れた。
建物が伸びる。縮む。左右にずれる。遠近感が壊れたように、通りそのものがぐにゃりと曲がった。電柱が二本に見える。人の姿が重なって見える。隣を歩いていた獣人の輪郭が、一瞬だけぼやけた。
キィィィン――っと頭の奥で、甲高い音が鳴った。
「……っ」
澪は思わず目を閉じた。
胃の奥が浮く。身体が、ほんの少しだけ地面から離れたような感覚。乗り物に酔ったときに似ている。
けれど、それよりずっと奇妙だった。
「凛?」
隣から返事がない。
目を開けてみると凛が片手で額を押さえていた。
「……ちょっと、くらっとした」
「大丈夫?」
「うん。大丈夫」
そう言った凛の声も、少しだけ掠れている。
周囲でも、何人かが足を止めていた。耳を押さえる獣人。目を閉じる竜人。壁に手をついているドワーフ。胸元を押さえながら深呼吸している人間。
もちろん、何事もなかったように歩き続ける者もいる。
感じ方には個人差がある。けれど、この瞬間だけは誰もが同じものを経験していた。
世界そのものが、裏返るような感覚。
それは、二秒ほどしか続かなかった。
そして――終わった。
音が消える。歪みが止まる。世界が、元の形を取り戻す。
――いや。元の形ではなかった。
澪はゆっくりと顔を上げた。
そこにあったのは、さっきまでの商店街ではない。
アスファルトが消えていた。足元には石畳が続いている。電柱はなくなり、代わりに金属製の街灯が立っていた。その先端には、炎ではなく青白い魔力の光が浮かんでいる。ガラス張りだった店の外壁は、灰色の石造りへ。電子看板は姿を消し、代わりに色鮮やかな布の看板が吊られている。
八百屋の隣には魔法薬を扱う店。パン屋の向かいには、魔石を使った調理器具を並べた店。
通りを走っているのは自動車ではなく、魔力を動力にした小型の乗り物だった。
さっきまで現代そのものだった街が、まるで別の世界に置き換わっている。
それなのに。人々は、もう歩き始めていた。人間の青年が魔法道具の店へ入っていく。獣人の女性が魔石の照明を買っている。エルフの老人が屋台で串焼きを受け取る。竜人の子供が魔力で動く玩具を欲しがっている。ドワーフが魔法工具を手に取り、ゴブリンの店主と値段交渉をしている。
さっきまでと同じ人々が、さっきまでと同じように日常を続けていた。
「……スイッチしたみたいだね」
凛が言った。
「うん」
フェイズ・チェンジ――現異区域で、現代であるローフェイズと異世界であるハイフェイズが切り替わる現象だ。住民は単に「スイッチ」と呼んでいる。
現異区域では、ローとハイの二つの世界が重なっている。スイッチが起きると、街が移動するのではなく、表に出る位相が入れ替わる。
通常は、観測機関が事前に変動を捉え、少なくとも一時間前には予報を出す。だが、突発的なスイッチでは予告なくローとハイが切り替わる。
「でも、予報出てなかったよね?」
「たぶん」
澪はスマートフォンを見る。
通知は何もない。
「突発かな」
「みたい」
凛はまだ少しだけ額を押さえていた。
「気持ち悪くない?」
「私はちょっとだけ。でも、もう平気」
「無理しないでね」
「うん」
凛は笑った。
「ありがと」
澪も小さく笑い返した。
そして二人は、また猫を探し始めた。
ハイフェイズの商店街を歩く。魔法道具を扱う店。薬草を売る店。魔石を使った調理器具を並べた店。武具店の前では人間の若者が剣を眺め、向かいの食堂では獣人たちが昼食の続きを楽しんでいる。
そんな街を進んでいくうちに、凛が一軒の店で足を止めた。
「すみません」
店番をしていたのは、人間の男性だった。棚には色とりどりの魔石や、小さな杖、用途の分からない瓶、古びた装飾品などが並んでいる。
凛が猫の写真を見せる。
「この猫、見ませんでした?」
店主は写真を覗き込み、少し考えた。
「白黒の猫ねえ……」
それから、ふと顔を上げる。
「あれじゃね?」
「え?」
店主が店の外を指差した。
二人が振り返る。
そこを、一匹の猫が歩いていた。
白と黒。長い尻尾。
そして――
「……あれだ」
写真と見比べる。間違いない。
「見つけた!」
凛が一歩踏み出した。
猫がこちらを見る。一瞬、目が合った。
そして――逃げた。
「……あ」
「待って!」
凛が走り出す。
「凛、待って!」
「待ってたら逃げるでしょ!」
「それはそうだけど!」
猫は石畳を軽快に駆け抜けていく。人の足元をすり抜け、屋台の間を抜け、細い路地へ飛び込んだ。
二人も追いかける。
「速い!」
「猫だからね!」
「そういう問題じゃないよ!」
角を曲がる。さらに曲がる。人通りが減っていく。商店街の賑わいが遠ざかる。
やがて猫は、細い路地の奥へ消えた。
「どこ行った?」
凛が辺りを見回す。
澪も息を切らしながら追いつく。
「……もう帰りたい」
「まだ猫見つけたばっかりだよ」
「見つけたのに逃げたんだから、振り出しだよ」
「大丈夫。ほら、そこ」
凛が指差した。
路地の奥。古びた建物の影。そこに、何人かの男たちがいた。
そして、その中央。古いソファに座った大柄な男が、猫を膝に乗せている。白黒の猫は、男の手で撫でられながら気持ちよさそうに目を細めていた。
「……いた」
「うん」
凛が歩き出す。
「すみません」
男が顔を上げた。
「なんだ?」
「その猫、私たちが探してた猫なんです」
「そうか」
男は猫を見る。そして、また撫でる。
「でも、こいつ俺のこと気に入ってるみたいだぜ」
「そうなんですか」
凛は困ったように笑った。
「でも、飼い主さんが待ってるので。返してもらえます?」
「嫌だね」
「……そうですか」
凛の声は変わらなかった。
怒鳴りもしない。睨みもしない。
ただ、静かに男を見る。
「じゃあ、もう一度だけ聞きますね」
凛が言った。
「その猫、返してもらえませんか?」
男は笑った。
「断るって言ってんだろ」
「分かりました」
凛は小さく頷いた。
その横顔を見て、澪は思った。
こういうときの凛は、もう一歩も引かない。
「……凛」
「なに?」
「できれば、穏便にね」
「もちろん」
凛は笑った。
いつもの、明るい笑顔だった。
「できるだけね」
その言葉を聞いて、澪は小さく息を吐いた。
どうやら、猫探しはまだ終わりそうになかった。




