第1話 『凛と猫』1
駅前は、今日も人で溢れていた。改札から吐き出された人々が大通りへ流れ、信号が変わるたびに、その流れがいくつもの方向へ枝分かれしていく。
スーツ姿の人間。背の低いドワーフの老人。犬の耳を揺らしながら歩く獣人の学生。買い物袋をいくつも抱えたオークの女性。人間の少年と手を繋いだ、青い鱗の竜人。少し離れたところでは、羽根の生えた小柄な種族が信号待ちをしていた。
角の形も、肌の色も、身体の大きさも違う。それでも誰も、誰かを珍しそうに眺めたりはしない。
この街では、それが普通だった。
澪もまた、そんな人の流れをぼんやり眺めながら、駅前広場の隅で路上ライブをしている男の前にしゃがみ込んでいた。
目の前では、一人の男がアコースティックギターを抱えている。四十代くらいだろうか。少しくたびれたシャツに、伸びかけた髪。足元には小さなアンプと、ギターケース。
そして、その前にいる観客は――澪一人だった。
山口二郎がこちらを見て、軽く笑った。
「じゃあ、最後の曲ね」
「うん」
澪も小さく頷く。
山口二郎がギターを鳴らした。
駅前の喧騒の中に、柔らかな音が広がっていく。
電車が到着したことを知らせるアナウンス。車のクラクション。誰かの笑い声。靴音。
そうした街の音に混じって、ギターの音が流れていく。
『飲みかけの水を全部飲んでしまった』
澪は黙って聴いていた。この時間が好きだった。特別な理由があるわけじゃない。
ただ、駅前の騒がしさの中で、ここだけ少しだけ時間がゆっくりになるような気がする。
やがて最後の一音が消えた。
澪は拍手をする。
観客は一人。だから、少しだけ大きく拍手した。
山口二郎が笑った。
「いつもありがとうね」
「いや、こっちこそ」
「今日も仕事?」
「うん。まあ……そんなところ」
「そっか。頑張ってね」
「そっちも」
それだけの短いやり取り。けれど、それで十分だった。
澪は立ち上がり、駅前広場を後にする。歩き始めたところで、ポケットの中のスマートフォンが震えた。
「……もしもし」
『あ、出た』
聞き慣れた声だった。
「凛?」
『うん。今どこ?』
「駅前。さっき着いたところ」
『そっか。じゃあ、ちょうどいいや。私も近くにいるから』
「分かった」
通話を繋いだまま、澪は大通りへ向かった。
その途中、頭上の大型ビジョンが目に入る。大きな画面いっぱいに映し出されたのは、一本の飲料だった。透明なボトルの中で、淡い金色の液体が光を受けて揺れている。
爽やかな柑橘系の香りをイメージさせる映像。人間の若い女性がボトルを手に取る。続いて、隣に立っていた獣人の男性も同じ商品を手にした。
商品名が大きく表示される。
「……あ」
澪の視線が、画面の中央に吸い寄せられた。ちょうど昨日、コンビニで見かけた新商品だった。
まだ飲んだことはない。少し気になっていた。
『もしもし?』
「あ、ごめん。聞いてる」
『ほんと?』
「うん。新しい飲み物のCM見てた」
『そんなの見てる場合?』
「いや、ちょっと気になってて」
『あとで買えば?』
「そうする」
CMが終わり、別の広告へ切り替わった。澪は名残惜しく画面から目を離す。
そのまま少し歩くと、前方から手を振っている人が見えた。
「おーい」
凛だった。彼女は、今日もよく目立っていた。
肩口で揺れる淡い髪に、明るい表情。細身の身体には軽やかな服を纏い、耳元にはいくつかのアクセサリーが揺れている。左腕には、いつものブレスレット型端末もあった。
人目を引く容姿なのに、本人はそんなことを気にした様子もない。こちらに気づくと、いつものように笑って手を振った。
「ごめん、待った?」
「ううん。私も今来たところ」
「そっか」
「それより」
凛がスマートフォンを取り出した。
「猫」
「猫?」
「今日の依頼」
「ああ猫探しか」
画面に写真が表示される。
白と黒の毛並み。長い尻尾。そして、なんとも言えない顔。
「……」
「どう?」
「普通の猫だね」
「猫なんだから普通でしょ」
「いや、探偵事務所に依頼される猫なら、もうちょっと特徴があるのかなって」
「あるよ」
「どこに?」
「白黒」
「それは特徴って言わないんじゃないかな」
「言うって」
凛が笑う。その笑い方は明るく、気負ったところがない。
「飼い主さんによると、昨日の夕方から帰ってきてないんだって」
「外に出たまま?」
「そう。いつもなら帰ってくるらしいんだけど」
「なるほど」
澪はもう一度写真を見る。
「名前は?」
「ミケ」
「……ミケ?」
「うん」
「白黒なのに?」
「私も聞いた」
「飼い主さん、適当だね」
「まあ、名前なんてそんなものでしょ」
「そうかなあ」
二人は歩き始めた。駅前から少し離れると、人の密度も少しだけ落ち着く。
とはいえ、街が静かになるわけではない。通りを走る車の中には人間だけでなく、獣人の運転手もいる。歩道では、トカゲのような頭をした男がコンビニから出てきて、片手でスマートフォンを操作していた。向かい側では、小柄な妖精族が人間の女性と何かを話している。その頭上を、翼を持った鳥人が横切っていった。
「この辺で聞いてみようか」
凛が言う。
「うん」
二人は近くの店で猫を見なかったか尋ねた。
結果は、すぐに分かった。
「白黒の猫? 見てないねえ」
「そうですか。ありがとうございます」
次の店でも。
「うーん、最近猫は多いけど、その子は知らないな」
「ありがとうございます」
さらに歩く。
交差点を渡ったところで、妙な頭をした人が二人の横を通り過ぎた。
人型の身体。頭部だけが、まるで巨大な花瓶のような形をしている。
澪は一瞬だけそちらを見た。向こうもこちらを見たような気がした。
けれど、それだけだった。
「今の人、なんだったんだろ」
「さあ?」
「凛でも分からないんだ」
「私の頭が図鑑にでも見えてる?」
「そういう冗談言っていいの?」
「友達の異形頭族がこういうのが鉄板ジョークって言ってた」
「そうなんだ」
さらに少し歩く。
今度はパチンコ店の自動ドアが開いた。中からエルフが一人出てきた。
長い耳。整った顔。金色の髪。そして、ものすごく疲れた顔。
エルフは景品らしき袋を片手に、そのまま二人の横を通り過ぎていった。
凛がちらりと見る。
「……負けたのかな」
「顔だけで判断するのはどうかと思うよ」
「でも、あの顔は負けてるよ」
「経験者みたいなこと言うね」
「ないない」
「ならよかった」
「なにが?」
「いや……凛がパチンコにハマってなくて」
「私、そんなに暇じゃないよ」
「それもそうか」
澪は少し笑った。
そのときだった。凛が、ふと足を止めた。
「……あれ?」
「ん?」
澪も立ち止まる。
凛が見ているのは、少し先にある細い路地だった。人通りの多い大通りからは死角になっている。
そこから、低い声が聞こえた。
「いいから出せって」
「本当に持ってないんです……」
「じゃあ鞄見せろよ」
怯えているのは少年らしき声だった。澪は眉を寄せる。凛は何も言わなかった。
ただ、もう歩き出していた。
「凛?」
「ちょっと行ってくるね」
「え、ちょっと――」
「大丈夫」
振り返った凛が、いつものように笑う。
「すぐ終わるから」
「いや、そういう問題じゃ……」
「君も来る?」
「……行くよ」
結局、澪も後を追った。
路地の奥では、三人の男が少年を壁際に追い詰めていた。
「だから、ないんだって……」
「うるせえな」
男の一人が少年の肩を掴む。
「ちょっと」
凛の声が響いた。
三人が振り返る。
「その辺にしない?」
「なんだ、お前」
「見て分からない?」
凛は少年を指差した。
「嫌がってるじゃん」
「関係ねえだろ」
「あるよ」
凛は穏やかな声のままだった。
「困ってる人がいる。それだけで関係ある」
「なんだそれ」
嘲笑的な笑みを浮かべる男が凛へ近づいてくる。
「凛、できれば穏便にね」
「もちろん」
凛は笑った。
「私もそのつもり」
だが次の瞬間、男の腕が凛へ伸びた。
凛はそれを軽く避けた。そのまま手首を取って、身体を回す。
男の身体が勢いよく傾いた。
「うわ」
澪が思わず声を漏らす。
「大丈夫だよ」
「いや、僕が心配してるのそこじゃなくて……」
残った二人が向かってくる。
「凛!」
「分かってるよ」
凛は振り向きざまに一人の足を払った。
もう一人は澪の方へ向かってきた。
「え、僕?」
逃げる間もない。男の拳が迫る。
澪は身体をひねって、それを躱した。続けて振り抜かれた拳を、今度は半歩下がって避ける。三発目は身を低くして躱した。
反撃することもできたが、相手を傷つけるつもりはなかった。
そのとき、横から伸びてきた凛の手が、相手の拳を受け止めた。
「そこまでにしようか」
凛は穏やかに言いながら、その腕を軽く引いた。男の身体が大きく傾く。
次の瞬間、凛は相手をそのまま地面へ投げ倒した。
結局、三人組は捨て台詞を残して逃げていった。
助けて貰った少年は何度も頭を下げた。
「ありがとうございました!」
「ううん。気をつけて帰ってね」
「はい!」
少年が走り去っていく。
凛はその背中を見送った。
「……よかった」
「凛」
「なに?」
「猫」
「あっ……」
凛が瞬きをする。
「そうだった」
「忘れてたんだ」
「ごめんごめん」
「いや、まぁ……凛らしいけど」
「でしょ?」
「褒めてないよ」
「知ってる」
凛が笑った。




