『世界が交わった日』 後編
午後七時。街の外れで、山がひとつ崩れた。
けれど、土砂は落ちなかった。崩れ落ちたはずの大地は、そのまま宙へと浮き上がっていく。根こそぎ引き抜かれた木々が、ゆっくりと回転しながら舞う。岩が転がることさえせず、地面そのものが横へと流れていった。
そして、その向こうから、見たこともない巨大な城壁が姿を現す。
異世界の大地が、現代の街へと流れ込んでくる。
道路の先が、いつの間にか森へと繋がっている。ビルとビルの隙間から、見知らぬ巨大な樹が幹を伸ばす。高速道路の向こうには、昨日までそこになかったはずの山が、当たり前のようにそびえていた。空を横切って流れる川が、街の上をそのまま通り過ぎていく。ビル群の隙間から、傾いだ城が姿を覗かせる。
現代と、名も知らぬ世界とが、互いの領域を侵していく。
けれど――それは、侵略ではなかった。どちらか一方が、もう一方へ押し寄せているのでもない。もっと根本的な何かが、壊れていた。
二つの世界を分けていたはずの「境界」そのものが、音もなく崩れ落ちていた。
*
午後九時。その頃にはもう、この街は昨日までの街ではなくなっていた。
ビルとビルの間を、深い森が埋めている。道路の上を、川が音もなく流れていく。支えを失ったはずの巨大な岩が、当たり前のように宙に浮かんでいる。空の途中では、住宅ほどの大きさの建物が、ゆっくりと回転を続けていた。その向こうで、傾いた城が、今にも崩れ落ちそうな角度のまま静止している。
それでも、人々は地面に立っていた。
そして、そこかしこで、見慣れない姿をした者たちの気配に気づき始めていた。
人間によく似た姿をした者。獣を思わせる耳や尾を持つ者。長い耳をした者。額に角をいただく者。
崩れていく景色の中で、ふと目が合う。だが、言葉を交わす余裕は、どちらにもなかった。恐怖と困惑を貼りつけた顔のまま、互いはただ視線を逸らすようにして、それぞれの足元だけを見つめていた。
*
午後十一時。この街を知っていたはずの者たちでさえ、もはやどこまでが自分たちの世界なのか分からなくなっていた。
街は、森と山と城とに覆い尽くされている。異世界の大地には、現代の建物が不自然な角度で突き刺さっている。道路が、途中から空へと伸びていく。川が、横向きに流れていく。巨大な建造物が、上下という感覚を失ったまま、ゆっくりと回転を続けている。
それでも、生きているものだけは、変わらず地面に立っていた。
まるで、世界そのものが壊れていくその只中で、命だけが何か最後の約束事のように守られているようだった。
誰も、言葉を発さなかった。声を上げる気力さえ、すでに残っていなかったのかもしれない。
ただ、時計の針だけが、何事もないかのように進んでいく。
十一時五十九分。あと、一分。
世界が、静かだった。不思議なほどに。呼吸の音さえ、大きく聞こえるほどに。
*
午前零時。
その瞬間。世界が、白くなった。
光だった。ただの光ではない。目を開けていることさえ許さない、圧倒的な白。
街も。森も。山も。城も。そこに立つ、すべての人々も。何もかもが、その白の中へと呑み込まれていく。音が、消えた。悲鳴も。風の音も。何一つ、聞こえない。
あるのは、ただ、白。
白。
白。
それだけだった。
どれほどの時間、そうしていたのか。誰にも分からない。永遠のようでもあり、瞬きひとつの間のようでもあった。
そして――光が、消えた。
*
朝が来た。
街は、何ごともなかったかのように、そこにあった。道路がある。ビルが建っている。駅がある。コンビニの灯りがついている。信号が、赤から青へと変わる。空には、いくつかの雲が浮かび、風がやわらかく吹いていた。
まるで、昨日までと何ひとつ変わらない、いつもの朝のようだった。
世界は、元に戻った――そう、見えた。
「…………」
街角で、一人の男が足を止めた。目の前に、少女が立っている。
長い耳。見たことのない意匠の衣服。腰には、一振りの剣。少女は怯えた顔で、忙しなく周囲を見回していた。
その隣にも、人間によく似ている――けれど、明らかに人間ではない男が立っている。少し離れた場所には、額に角を戴いた者の姿もあった。
街のあちこちに、見知らぬ者たちがいた。
誰も、自分がどこにいるのか分からない。
誰も、なぜここにいるのか分からない。
そして、それを見つめる現代の人々もまた、彼らが何者なのか分からなかった。言葉はなかった。ただ、互いの視線だけが、静かに交わされていた。
それでも――一つだけ、確かなことがあった。
世界は、元に戻ったのではない。二つの世界は、すでに、一つになっていた。
後に、この出来事は――
**世界交差事変**
そう呼ばれることになる。
そして、現代と異世界が交わり合った、この街を。
人々はいつしか、こう呼ぶようになった。
**現異区域**




