『世界が交わった日』 前編
その朝も、いつもとまったく同じだった――はずだった。
駅の改札は人波を吐き出し続け、大通りには車の列が途切れることなく続いている。コンビニでは眠たげな店員が黙々とレジを打ち、通学路を行く学生たちは欠伸を噛み殺しながら歩いていた。空は青く、いくつかの雲がゆっくりと流れ、風はやわらかく吹いている。誰もが、昨日という日をそのまま引き継いだような、代わり映えのない今日を生きているつもりだった。
違ったのは、ただ一つ。
朝から、街には霧が立ちこめていた。
最初は、誰も気にしていなかった。天気予報が外れることくらい、珍しくもない。
けれど、正午が近づくにつれて、霧はむしろ濃さを増していった。
白い。どこまでも、白い。街の中心から外へ向かうほど、その白さは強くなっていくようだった。まるで、街そのものを包む膜のように。
そうして正午を回った頃、ようやく人々は、この霧がただの気象現象ではないことに気づき始めた。
「……おかしくないか?」
誰かが呟いた声を皮切りに、街の空気が変わっていく。
*
街の外へ続く道を、一台の車が走っていった。誰もが、それをただ見送っただけだった。霧の向こうへ消えていく――それだけの、ありふれた光景のはずだった。
だが、数分後。同じ霧の中から、その車が戻ってきた。しかも、まるで何かに追い立てられるように、逆走する形で。
「おい!」
「危ない!」
悲鳴に似た声が重なり、急ブレーキの音が響き渡る。車は、ぎりぎりのところで止まった。
「何やってんだ、あぶねぇじゃねーか!」
駆け寄った男が怒鳴る。だが、運転手は答えなかった。ハンドルを握りしめたまま、荒い呼吸を繰り返すばかりだった。
「聞いてんのか!」
「……違う」
ようやく絞り出された声は、震えていた。運転手は、震える指先で、今まで走ってきたはずの霧を指し示す。
「違うんだ……俺は……逆走してない」
「は?」
「向こうへ行ったんだ。街の外へ出ようとした」
声が、また詰まる。
「ずっと、真っ直ぐ走った。なのに――」
「……気づいたら、ここにいた」
「ここって……」
「さっき、出ていった場所だ」
周囲がざわめいた。
「そんなわけ……」
誰かが呟く。だが、その顔を見れば、冗談を言っている人間の目でないことだけは、誰の目にも明らかだった。
やがて、誰かが口を開いた。
「もう一回、やってみろ」
「え?」
「本当に同じ場所へ戻ってくるなら――」
運転手は、しばらく黙っていた。それから、何かを振り切るように車に乗り込み、エンジンをかける。そして、もう一度、霧の中へと進んでいった。
車体が、白の奥へ溶けるように消える。
一分。二分。三分。誰も、言葉を発さなかった。ただ、霧の向こうを見つめていた。
そして、エンジン音が近づいてくる。
「……来た」
霧の中から、車が現れた。さっきと同じように、逆走する形で。まったく同じ場所で、急停止する。
運転手が降りてくる。顔は、紙のように白かった。
「……本当だった」
誰かが息を呑む音が、はっきりと聞こえた。
「何回やっても……ここに戻ってくる」
その頃には、同じ異常が街のあちこちで確認され始めていた。別の道から出ようとした車も。霧の中を歩いて進んだ者も。自転車のペダルを踏み続けた者も。
結果は、いつも同じだった。
どれだけ進んでも。どの方向へ進んでも。霧の中へ入った者は、必ず、入った場所へと戻ってくる。
――街の外へ、出られない。
そして、異常はそれだけで終わらなかった。
電話が繋がらなくなった。インターネットが、外部との接続を失った。テレビの映像が乱れ、やがて砂嵐に変わる。ラジオからは、ノイズしか聞こえなくなった。
街の外から届くはずのものが、一つ、また一つと消えていく。まるで、この街だけが、世界そのものから静かに切り離されていくようだった。
人々は、何度もスマートフォンの画面を確認した。電波の表示は消えたまま、戻らない。誰かに連絡を取ろうとして、指先だけが空回りする。
警察も消防も出動し、道路を封鎖して霧の調査に当たった。だが、原因は分からない。霧の正体も、街が閉じ込められた理由も、何一つとして。
ただ、街を覆う白だけが、変わらずそこにあった。
*
異変は、空にも現れた。
午後二時を回った頃だった。
「……何だ?」
誰かが、ふと空を見上げた。
青く澄んだ空に、一本の線が走っている。細く、黒い線だった。最初は、飛行機雲だろうと誰もが思った。
けれど、消えない。それどころか、ゆっくりとその幅を広げていく。
「空……?」
――ピシッ。乾いた音が響いた。硝子にひびが入るときのような、乾いた音だった。
一本だった亀裂が、二本に。三本に。枝分かれしながら、空いっぱいへと伸びていく。
道を歩いていた人々が、足を止める。信号待ちの車が、そのまま動かなくなる。街のいたるところで、誰もが同じ方向を――空を見上げていた。
そして、午後三時。
空が、開いた。まるで、見えない巨大な手が、青空という一枚の布を左右に引き裂いたように。
亀裂の向こうには、別の景色が広がっていた。だが雲でも、宇宙でもない。
それは森だった。深い緑が地平線まで続き、その奥に山が連なる。さらに向こうには、陽光を弾く巨大な湖。そして遠く、稜線の狭間に、城としか呼びようのない巨大な建造物が佇んでいた。
誰も、声を発せなかった。空の向こうに、見知らぬ景色がある。ただそれだけの事実が、言葉を奪っていた。
「なんだ……あれ」
「映像……なのか?」
「いや、でも……」
「空に、映像が映るわけ……」
誰も、答えられない。
そして、誰も『異世界』とは口にしなかった。そんなものが本当に在るなどと、これまで誰も考えたことすらなかったからだ。
だから、人々はただ、見つめていた。
理解できないものを。
空に開いた、巨大な裂け目を。
その向こうに広がる、名前の知らない世界を。
*
時間が経つほどに、亀裂は広がっていった。
午後四時には、空の半分近くが、見知らぬ景色に塗り替えられていた。手を止め、意味もなく空を見上げ続ける者たちもいた。何を見ているのか、自分でも分からないまま。
午後五時、青空と呼べるものは、もうわずかしか残っていない。
そして午後六時――最後の一片さえも、消えた。青も。雲も。夕焼けの気配さえも。
そこにあるのは、どこまでも続く見知らぬ世界だけだった。森。山。湖。巨大な城。見たこともない街並み。そして、その空を悠然と横切っていく、翼を持つ巨大な生き物の影。
それらのすべてが、この街の頭上いっぱいに広がっている。空という空が、まるごと別の場所にすり替わってしまったかのようだった。
人々は、恐怖していた。
けれど、それでもまだ、誰も何が起きているのかを正しく理解してはいなかった。ただ、空に何かがある。そう思うことしか、できなかった。
だが、午後六時を過ぎた頃。次の異変が、静かに始まっていた。
最初に浮いたのは、道端に転がっていた小さな石ころだった。
ふわり、と。
何の前触れもなく、宙へ浮かび上がる。
「……え?」
誰かが、それを二度見した。
落ちない。風に飛ばされたのでもない。石は、ただそこに――何もない虚空に、静かに浮いていた。
次いで、駐車していた車が浮いた。タイヤが、音もなく地面から離れる。信号機が支柱ごと傾ぎ、電柱が軋み、建物の壁面が小さく震える。そして、アスファルトそのものが、ゆっくりと持ち上がり始めた。
「逃げろ!」
誰かの叫びを合図に、人々が我先にと走り出す。小さな子どもが、母親の袖に強くしがみついた。
だが、走りながら、誰もが同じ違和感に気づいていった。
人間は、浮かない。動物も、浮かない。生きているものだけが、今までと変わらず地面に引き寄せられている。
なのに――それ以外のすべてが、「下」という感覚を失っていく。
車が宙を滑るように流れる。看板が、意味もなく回転を始める。電線がたわみ、限界を超えて伸びていく。破裂した水道管から噴き出した水が、地面へ落ちない。水は、まるで重さを忘れたかのように、空中を横へと這っていった。
川もまた、川であることをやめようとしていた。水面が斜めに傾き、水が岸から浮き上がる。巨大な水の塊が、ゆっくりと空へ向かって持ち上げられていく。
「何なんだよ……これ……」
誰かの声が、震えながら零れた。
答えられる者は、どこにもいなかった。




