父の太刀筋と日輪の証
境界峡谷へ踏み込んで間もなく、第7小隊の歩みはいったん止まった。
先行させた二名の斥候のうち、一名が息絶え、もう一名が負傷して這い戻ってきたのだ。深入りしたところで敵が待ち伏せており、魔導砲の斉射を浴びせてきたという。負傷兵の報告によれば、峡谷の奥には紫黒の魔導鎧を纏った帝国の先鋒隊——重装歩兵の一隊と、高台に据えられた数門の魔導砲が、すでに迎撃の陣形を組んでいるという。
「……作戦目標を確認する。僕たち第7小隊の任務は【境界峡谷に据えられた敵魔導砲台の破壊と、隘路の啓開】だ。ここを抜かれれば、背後の防衛線は崩れ、国境沿いの村々が火の海になる。……そして、ここが、僕たちの初陣だ」
若き聖騎士アルスは、目の前の現実に青ざめながらも、浅くなりかけた呼吸を静かな声で引き締めた。
黒革の手袋で汗を拭い、鞘から半ばまで太陽長剣を抜いて刃を見つめる。十五歳で一兵卒として泥濘の前線に身を投じて以来、戦場の凄惨さも、刃に散る仲間の血も決して見知らぬものではなかった。だが、士官学校を出て二十歳で小隊長を任され、自らが下す号令一つに部下の生死が懸かっているという重圧は、兵卒時代とはまるで質の異なる冷たい鉛となって両肩にのしかかる。自らが先行を命じた斥候の命を、敵が奪ったという痛恨が、胸の奥を刺す。それでも、胸元に下げた、父が残していった【日輪のペンダント】の冷たい感触が、青年の背筋を強く伸ばさせていた。
「嫌な入り方だな」
重斧騎士ガウェインが、巨大な大戦斧をガシャンと肩に担ぎ直し、太い眉を寄せた。
「境界峡谷は両脇がそそり立つ断崖絶壁。一本道の頭上を、高台から完全に射線へ収められてやがる。向こうはとっくに待ち構えてるってこった」
「……ですが、迂回路はありません」
白魔導士エレアが負傷した斥候に応急の手当てを終え、星樹の聖木杖を両手で握りしめた。
「ここを退けば、国境の村々に戦火が及びます。アルス様、全員の状態は整えました。《聖光の祈り》は、いつでも捧げられます」
「ありがとう、エレア。ガウェインも、前線の警戒を頼むよ」
アルスが頷いたその時、部隊の最後尾から、漆黒の外套を羽織った銀の半面仮面の魔剣士ヴェルが静かに歩み寄ってきた。
仮面の奥から覗く鋭い双眸が、アルスの顔をひたと見据え、それから背後にそびえる峡谷の岩肌へと向けられる。その眼差しには、若き隊員たちを誰一人として失わせはしないという、歴戦の勇士ならではの揺るぎなき覚悟が滲んでいた。
「ヴェル殿。あの谷を抜ける策は、ありますか」
アルスが尋ねると、仮面の魔剣士は地図を広げようともせず、ただ低く答えた。
「策はない。あるのは、覚えのある光景だけだ」
「覚えの……?」
「敵はまず、頭上から結界ごと谷を潰しにかかる。混じって降ってくるのは、ただの魔導弾じゃない。紫黒の杭だ。あれは光の壁に触れると砕けず、内側へ喰い込んで結界を腐らせる。……エレア。ドームは張るな。張った端から餌にされるぞ」
白魔導士が息を呑んだ。教典のどこにも記されていない魔導を、この男は目にする前から言い当てている。
「杖は仕舞っておけ。要るのは光の傘じゃない。走る脚と、盾の角度と、砲台を潰すまでの数十秒だ」
「なぜ、まだ起きてもいないことを、そこまで言い切れるのですか」
アルスの問いに、ヴェルは一瞬だけ黙し、それから外套の襟を峡谷の風になびかせた。
「……昔、同じような谷で手痛い目に遭ったことがある。飽きるほどな。……行くぞ。仲間から目を離すな」
その落ち着き払った横顔に、アルスはまたしても、幼い日に仰ぎ見た父レグルスの頼もしさを重ねずにはいられなかった。
「全軍、突入! 敵が仕掛けてくる前に、砲台の真下へ潜り込む!」
アルスの号令とともに、第7小隊は境界峡谷の暗がりへと進軍を開始した。
峡谷の内部は、昼間だというのに薄暗く、紫黒の冷たい霧が立ち込めていた。
足元はゴツゴツとした岩肌が続き、切り立った断崖の隙間から吹き込む突風が、不気味な唸り声を上げている。
その時——突如として、崖の上から耳をつんざくような魔導警報音が響き渡った。
大地を揺るがす不気味な重低音とともに、峡谷全体の大気が張り詰め、殺気立った魔力の波動が渦を巻く。
地響きと共に、前方の岩陰や断崖のくぼみから、紫黒の魔導重装歩兵の一隊が、隊列を組んで一斉に姿を現した。
高台には数門の魔導砲台が据えられ、砲口が禍々しい紫炎の燐光を帯びてアルス小隊へと向けられる。
「伏兵だ! 撃ち下ろしてくるぞ!」
「総員、谷の中央から離れろ! エレア、結界は張るな——ヴェル殿の言葉を信じろ!」
エレアが反射的に掲げかけた聖木杖を、寸前で止める。
「来ます、頭上——!」
次の瞬間、高台の砲門が一斉に火を噴いた。降り注いだのは無数の魔導榴弾と、それに混じった紫黒の杭。
杭は、小隊のすぐ脇の岩壁に突き立った。そして——砕けなかった。触れた岩肌がジュッと黒く変色し、内へ内へと石そのものを腐らせ、崩していく。もしそこに聖光の結界が張られていたなら。想像するだけで、エレアの背筋が凍りついた。
「一本道の真ん中を空けろ! 断崖の裾へ張りついて走れ、固まるな!」
ヴェルの指示のもと、小隊は谷底の中央を捨て、切り立った岩壁の裾へ身を寄せて前進した。榴弾の多くは狙いをつけた谷の中心へ落ち、爆風だけが背中を叩いていく。
「ガウェイン、盾は寝かせろ! 受け止めるな、受け流せ!」
「応ッ!」
ガウェインは大盾を斜めに傾け、真上から来る爆圧を正面で堪えず、角度をつけて谷底へ滑り落としながら前へ出た。巨体が一歩、また一歩と、確実に砲台の真下へと距離を詰めていく。
「砲台の真下まで来た……ここからは僕がやる!」
アルスは太陽長剣を両手で構え、全身の陽光魔力を刀身へと注ぎ込んだ。
黄金の光が刃を包み込み、神聖な閃光が立ち込める暗雲を切り裂く。
王国士官学校で学び、血の滲むような鍛錬で身につけた神聖奥義——《太陽剣・ソーラーブレード》。
「道を……開ける!」
アルスは崖の岩棚を蹴って高台へと駆け上がり、眼下に並ぶ砲列めがけて光の刃を斬り下ろした。
黄金の光波が数門の砲身をまとめて薙ぎ払い、紫炎の燐光が爆ぜて掻き消える。
しかし——渾身の一撃を放ち、全魔力を注ぎ込んだ直後。アルスの身体に、鉛を流し込まれたような硬直が走った。
それだけではなかった。眼下で、光波に薙がれた敵兵が声もなく崩れ落ちていく。兵卒時代の魔獣討伐や小競り合いとはまるで違う。二百年続く国家同士の真の実戦——自らの号令と剣が、敵兵の命を一度に奪い去ったという生々しい戦慄に、指が、呼吸が、ほんの一瞬止まった。無防備な背を、敵にさらしたまま。
その死角となっていた岩棚の裂け目から、漆黒の双剣を構えた敵の暗殺傀儡隊長が、音もなく落下してきた。
猛毒の紫煙を滴らせる凶刃が、硬直したアルスの首筋へと吸い込まれていく。
「動けぬ指揮官から、隊列は崩れる」
「しまっ……身体が……!?」
「坊主ぅぅッ——!」
下から見上げていたガウェインが血相を変えて絶叫した。
間に合わない——そう直感した巨漢は、手にした鉄壁の大盾を放り出してでもアルスの前へ肉体ごと割り込み、己の身を挺して突き飛ばそうと、猛然と地を蹴った。
だが、その無謀な身代わりを、初めから許すつもりなど毛頭ない男がいた。
「大盾を捨てるな、ガウェイン!」
鋭い一喝と共に、空間を切り裂いて割り込んできたのは、漆黒の外套——ヴェルであった。
いつからそこにいたのか。アルスの半歩後ろ、まさに暗殺隊長が狙い澄まして跳びかかってきたその着地点へ、ヴェルはすでに滑り込んでいた。
振り向きもせず、背中で敵の呼吸を聞くように、双極の魔剣の切先を落下点へ向ける。
「——《極光氷結波》」
蒼白の光が地を這い、落下してきた暗殺隊長を足元から呑み込んだ。猛毒の双剣も、頑強な魔導鎧も、振り上げた腕の形のまま純白の氷塊へと閉ざされる。返す刃のひと薙ぎが、凍てついた敵をガラスのように砕き散らした。
まるで、その刃がその岩陰から、その拍子で繰り出されることを——そして、誰がどのタイミングで身代わりに飛び出そうとするかまで、すべて知り抜いていたかのように。
「な……!?」
大盾を掴み直したガウェインが、目を見張って立ち尽くす。
「己の身を盾にして仲間を庇うな。お前の頑丈な体は、仲間を守る盾を握り続けるためにある。……二度と、自分を捨て石にするような真似はするな」
低く、だが魂の奥底に届くようなヴェルの言葉に、ガウェインは気圧されたように息を呑んだ。
「……へっ、手厳しいこった。だが、助かったぜ」
そして、敵を斬り伏せた太刀の流れを、ヴェルは止めなかった。
剣を返し、天へと掲げる。その全身から解き放たれたのは、アルスの太陽魔力を遥かに凌駕する、圧倒的な純白と黄金の陽光オーラだった。
太陽の光が刀身に集束し、神々しいまでの光輪を形成する。
それを見たアルスの瞳が、驚愕に見開かれた。
(あの構え……あの魔力の集束法は。エルシオン王家直属の聖騎士長にしか継承を許されない、失われたはずの神聖奥義——《真・陽光一閃》。父さんしか使えなかった王国秘伝の型だ。)
「——薙ぎ払え」
閃光が奔った。
大気が裂け、熱風が渦を巻いた。
ヴェルの一撃が、まだ火を噴いていた高台の残る砲列と、その脇で咆哮を上げていた敵の巨魁指揮官を、背後の巨大な岩壁もろとも一直線に断ち割った。
その凄まじい剣風の余波によって、ヴェルの漆黒の外套の襟元が大きく翻った。
流麗でありながら容赦のない、その太刀筋の残像に、アルスは息を呑んだ。
(あの研ぎ澄まされた太刀筋……父さんの剣そのものじゃないか。)
アルスの胸に、激しい感情の激流が押し寄せる。
十五年前、自分が五歳の時に「必ず戻る」と言い残して忽然と姿を消した父。
幼き日の記憶に残る、広くて温かい父の背中。
目の前で黒い外套をなびかせ、命がけで自分を守り抜いた仮面の魔剣士の姿が、父レグルスの面影と完全に重なり合っていた。
(まさか……ヴェル殿は……失踪した父さんなのか……!? 生き延びて、身分を隠して僕の初陣を見守りに来てくれたというのか……。)
「アルス、呆然とするな! 砲台は黙らせた。あとは谷底へ雪崩れ込んでくる後続だけだ!」
ヴェルの鋭い叱咤の声に、アルスは我に返った。
「は、はい……!」
父と信じたい若き騎士と、深き宿命を胸に秘めた仮面の魔剣士。
二人が並び立ち、太陽の光剣を同時に閃かせる。
砲撃の傘を失った敵の先鋒は、隘路の細さがかえって仇となり、殺到した先頭から二人の連撃に薙ぎ倒されていく。横合いはガウェインの大盾が固め、エレアの祈りが兵たちの浅い手傷を次々と塞いでいった。エレア自身は、結界の代わりに味方を庇い続けた消耗で指先を震わせていたが、それを誰にも見せなかった。
「今だ、全軍総攻撃! 境界峡谷を制圧せよ!」
アルスの号令の下、第7小隊の怒涛の反撃が敵軍を完全に壊滅へと追い込んだのだった。
「隊長! 高台の魔導砲台は全門粉砕、敵先鋒の撃退を確認しました!」
「境界峡谷の要衝制圧任務、完了です!」
兵士の報告に、アルスは深く息を吐き出し、太陽長剣を鞘に納めた。
「よし……これで境界峡谷の敵拠点を排除し、隘路の啓開と防衛線の確保という初陣の任務は果たした。……だが、先遣の斥候を一人、救えなかった。総員、隊列を整えてエルシオン王国前線基地へ帰還する。遺体を収容し、司令部へ任務完了の報告を行おう」
戦いが終わり、立ち込めていた紫黒の霧が晴れ渡った境界峡谷。
誰もが安堵と疲労に肩を落とすなか、ヴェルだけが勝利を喜ぶ気配を見せなかった。崖際に立ち、血糊を拭いながら、仮面の下で微かに荒い息を吐いている。命を削って前線に立ち続ける者の、痛ましいまでの静けさだった。
崖の上のアルスは、その背中を、複雑な思いで見つめた。小隊の仲間たちは守り抜いた。……なのに、剣を納めたばかりの手の震えが、まだ止まらなかった。
「……ヴェル殿」
アルスが歩み寄り、震える声で問いかけた。
「あなたのお名前は……本当に、ヴェルなのですか?」
仮面の男は一瞬だけ足を止め、外套の襟をそっと掻き合わせた。
その問いには答えず、仮面の奥の双眸を伏せると、低く静かな声で言った。
「……起きたことは、起きたことだ。それは、この世界の理を信じるということだ。何もしないための、言い訳にはならない。斥候はもう戻らない。過去の幻影を追うな、アルス。お前の進むべき道は、前だけにある」
背を向け、一人静かに歩き去る仮面の指南役。
その孤独な背中を見送りながら、アルスの胸には「父さんに恥じない本物の英雄になる」という固い決意が、熱く燃え上がっていた。
境界峡谷の要衝制圧任務を成し遂げ、第7小隊は夕暮れの前線基地へと凱旋を果たした。
だが、光と影の宿命の戦いは、この後、次なる霧深き戦場——【結晶街道】へと続いていくのであった。
(第2話・完 / 次話へ続く)
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境界峡谷の防衛線を守り抜いたアルスは、父の面影を宿す仮面の指南役への拭えぬ問いを胸に抱えながら、静かに前を指し示すヴェルの背を追い、次なる戦場へと歩み出した。
■ 登場人物ステータス(第2話終了時点)
- アルス (20歳):Lv 2 / 若き聖騎士(太陽剣・ソーラーブレード)
- ヴェル (40歳):Lv ?? / 客員指南役(真・陽光一閃 / 極光氷結波・双極魔導)
- エレア (19歳):Lv 1 / 白魔導士(フォース・シールド / 治癒魔法)
- ガウェイン (32歳):Lv 7 / 重斧騎士(アイアン・ガード / 鉄壁の大盾)




