第八話 膝をお借りした覚えはありません
「俺がお前に会いたい時だ」
「それは非常時じゃありません!」
間髪入れずに否定した。
「殿下が私に会いたいだけで何が非常事態なんですか!」
「俺にとってはそうだ」
「知らんがな!」
思わず素が出た。
シオンは少しだけ目を細めた。
笑った……のかもしれない。
(いや、そこでちょっと楽しそうにするな。こっちは全力で境界線を引いてるんだぞ)
「とにかく却下です。非常時とは、私が本当に困っている時だけ!」
「分かった」
また素直に引いた。
その聞き分けのよさに安心して。
私は数日後、自分からその境界線を踏み潰すことになる。
午後の温室。
課題の植物図鑑をまとめるため、私は奥の長椅子に座っていた。
ガラス越しの日差しはぽかぽか。
花と湿った土の匂い。
昼食後。
静か。
これはもう寝ろと言われているような環境だった。
(五分だけ……五分だけなら……)
そう思って目を閉じた。
次に意識が浮かんだ時。
頬の下に、妙に硬くて温かいものがあった。
「…………」
枕じゃない。
ゆっくり目を開ける。
黒い布。
その向こうに、太腿の形。
(…………太腿?)
顔を上げた。
シオンと目が合った。
「起きたか」
「…………」
「…………」
「ぎゃっ!」
飛び起きた。
――つもりだった。
寝起きの身体は私の命令を聞かなかった。
勢い余って前へ倒れ、両手がシオンの腹と胸へ着地する。
硬い。
めちゃくちゃ硬い。
そのまま私の肩をシオンの両手が支えた。
顔が近い。
近い近い近い。
あと少し前へ行ったら鼻が当たりそう。
しかも私の膝は、彼の脚の間に入りかけている。
(待っっって何この体勢!? 寝起き一発目から刺激が強い!! 私、恋愛経験ほぼゼロなんですけど!?)
「急に動くな」
低い声が、すぐ近くで響く。
まだ眠気の残った頭に直撃した。
(声がいい!! 今それいらない!!)
「な、なんで私、殿下の膝で寝てるんですか!?」
「頭が落ちそうだった」
「だから膝を!?」
「他に何がある」
「クッションとか!」
「なかった」
「じゃあ起こしてください!」
「よく寝ていた」
「見てたんですか!?」
「ああ」
「どのくらい!?」
「三十分ほど」
「三十分!?」
私の寝顔を!?
口開いてなかった?
よだれは!?
寝言は!?
人生終了候補が多すぎる。
「何もしてないでしょうね!?」
「何をすればよかったんだ」
「その返しやめてください!」
私は慌てて離れようとした。
でも。
ぽかぽかの温室。
昼食後。
柔らかな陽射し。
寝起き。
そして何より、さっきまで頬の下にあった太腿が妙に安定感抜群だった。
(…………眠い)
身体が勝手に負けた。
ふら、と頭が落ちる。
今度は膝ではなく、シオンの肩へ。
「…………」
自分でも何をしているのか分からない。
ただ、温かい。
硬いけど、安心する。
「……もう五分」
口から出た。
シオンが動かなくなった。
「…………」
「五分だけ……」
私は半分眠りながら、彼の肩へもう少し頬を預けた。
その瞬間。
脳が完全に起きた。
(私いま何した!?)
ばっと離れる。
「今のなし!」
「嫌だ」
「えっ」
即答だった。
「なしです!」
「嫌だ」
「なんで!?」
シオンはいつも通り無表情だった。
でも、ほんの少しだけ声が柔らかい。
「忘れろという要求は聞かない」
「そこだけ急に反抗しないでください!」
恥ずかしくて死にそう。
私は顔を覆った。
(昨日は背中にくっついて、今日は膝で寝て、肩まで借りて……私、監禁王子に何を教え込んでるの?)
違う。
これは恋愛じゃない。
疲れてただけ。
眠かっただけ。
人間、眠い時は判断力が落ちる。
だからノーカウント。
「もう帰ります!」
私は立ち上がった。
その背中へ。
「エリナ」
初めて。
シオンが私の名前を呼んだ。
足が止まる。
振り返ると、彼はまだ長椅子に座ったまま私を見ていた。
さっきまで私の頭が乗っていた自分の膝へ、一度だけ視線を落とす。
それから。
「今、もう一度眠れと言ったら――怒るか?」




