第五話 手を握ってください。今だけお願いします。
「近づいてほしいのか?」
「ほしくありません!」
反射で即答した。
シオンは一秒だけ私を見たあと、すっと一歩下がった。
「分かった」
そして本当に、三メートルに戻った。
(聞き分けがよすぎるんだよな、この監禁王子……)
原作の終盤では鍵まで掛ける男なのに、今のところ私の言うことをやたら聞く。
いや、いいことだ。
すごくいい。
私はヒロインじゃない。
執着対象でもない。
だからこのまま半年、何事もなく――。
「では、俺はここにいる」
「なんで!?」
「三メートル離れている」
「距離の問題だけじゃない!」
思わず叫んだら、図書館中の視線が刺さった。
私は小声で「すみません」と謝り、その日は逃げた。
翌日。
私は課題のため、学院地下の資料室へ向かっていた。
調べるのは四王国盟約成立当時の議事録。
古い資料なので地下保管らしい。
(勉強! 私は勉強しに来たの! 王子様とか関係なし!)
階段を降り、重い扉を開ける。
薄暗い室内には古い紙と乾いた革の匂い。
壁際のランプが、頼りない橙色の光を揺らしている。
そして。
「…………」
「…………」
奥の棚の前に、黒髪の男がいた。
(なんでいるのーーーー!?)
シオンだった。
「君もこの資料か」
「……そうみたいですね」
帰りたい。
でも今日中に読まないと課題が終わらない。
私は心の中で泣きながら、彼からきっちり三メートル離れた棚へ移動した。
するとシオンも何も言わず、その距離を保った。
(守るんだ……)
私が右へ行けば、彼は必要以上に近づかない。
私が脚立へ乗れば、倒れない程度の位置にはいるけれど手は出さない。
なんというか。
(普通に紳士では?)
いや騙されるな私。
未来の監禁犯だぞ。
そう思った、その時だった。
遠くで雷が鳴った。
ゴロゴロ、なんて可愛いものじゃない。
腹の底まで響くような轟音。
「ひっ」
肩が跳ねた。
直後、もう一発。
バァンッ!
地下室の扉が風圧で勢いよく閉まり、同時にランプの火が消えた。
一瞬で真っ暗になる。
「…………」
何も見えない。
扉へ走ろうとして、足が止まった。
暗い。
狭い。
閉じている。
頭の中に、よりによって原作の監禁エンドが蘇る。
鍵の掛かった塔。
開かない扉。
窓辺のヒロイン。
(無理無理無理無理)
息が浅くなる。
「エリナ」
暗闇からシオンの声がした。
「いるか」
「い、います」
「扉を確認する。そこにいろ」
足音が遠ざかる。
その瞬間。
「待って!」
自分でも驚くくらい大きな声が出た。
足音が止まる。
「……どうした」
「行かないでください」
言ったあとで、己の発言に己が殴られた。
(誰に言ってんの私!? 監禁王子に『行かないで』って!!)
「分かった」
足音が戻ってくる。
でも、途中で止まった。
「三メートルだ」
「…………」
律儀!
今それいらない!
また雷。
身体が勝手に震えた。
「……殿下」
「ああ」
「手」
「手?」
「手、握ってください」
沈黙。
(言ったーーーー!!)
でも怖い。
怖いものは怖い。
「今だけですからね! 非常時! これは非常時です!」
「ああ」
暗闇の中、少しずつ足音が近づく。
やがて指先に、何か温かいものが触れた。
「手を握っていてやる」
「はい」
大きな手が、私の手を包んだ。
熱い。
指が長い。
掌が広い。
さっきまで息苦しかったのに、人の体温を感じただけで少しだけ呼吸が戻った。
(……あったか)
シオンは強く握らない。
私が嫌ならいつでも抜けるくらいの力で手を握ってくれている。
それが、逆に安心した。
「大丈夫か」
「……ちょっとだけ」
また雷が落ちた。
「きゃっ!」
反射で手に力が入る。
気づけば、ただ握るだけじゃ足りなくて、私の指が彼の指の間へ入り込んでいた。
恋人みたいに、しっかり絡んでいる。
(待って待って待ってこれ手つなぎの上位互換のやつじゃない!?)
ほどこうとした瞬間、床が小さく震えた。
私は完全にバランスを崩した。
「わっ――」
次の瞬間。
頬が、硬い胸板へぶつかった。
鼻先にはシオンの制服。
耳のすぐそばで、どくん、どくん、と彼の心臓が鳴っている。
近い。
息がかかる。
握った手はまだ指まで絡んだまま。
(これ何!? 暗闇で手つないで胸に飛び込んでるんだけど!? 私、何のイベント踏んだ!?)
「す、すみませ――」
離れようとした。
その瞬間、また大きな雷。
無理だった。
私は今度こそ自分から、シオンの胸元へしがみついた。
「……離さないでください」
言った。
言ってしまった。
私の背中のすぐ近くで、彼の手が止まる気配がした。
数秒。
暗闇の中で、シオンの低い声が耳元へ落ちた。
「――抱いてもいいのか?」




