第三十九話 私は自由ですよね?
翌朝。
私は昨夜の一言の意味を、ようやく理解した。
暴風雨は夜明けには止んでいた。
窓の外には濡れた湖。
雲の隙間から薄い光。
風もさほど強くない。
(よし。帰れる)
私は着替えて鞄を持ち、客室の扉を開けた。
鍵はかかっていない。
廊下にも誰も立っていない。
(……いつもどおりだよ、ね?)
階段を降りる。
玄関へ行く。
正門を見る。
開いている。
「…………」
(開いてる)
監禁されていない。
ここ重要。
門、全開。
私の頭の中で、昨夜見た『交友人物一覧』がちらついた。
でもイヴァンは帰るなとは言わなかった。
扉も閉めていない。
(ほら。やっぱり考えすぎだったんじゃない?)
私は少しだけ安心して、玄関番へ声をかけた。
「学院まで馬車をお願いできますか?」
「申し訳ございません」
「え?」
「昨夜の雨で道が荒れております。危険ですので、本日は馬車を出せません」
まあ、分かる。
「では舟で湖の反対側まで」
「波が高いため、舟もお出しできません」
「……馬は?」
「お貸しできません」
「どうして?」
「危険ですので」
三連続。
(危険ですので、万能すぎない!?)
私は別の使用人にも聞いた。
同じ。
厩舎へ行った。
同じ。
裏門の番人にも聞いた。
同じ。
「では、イヴァン殿下の許可が必要なんですか?」
苛立って聞く。
使用人は青ざめた。
「そのようなことは……」
「じゃあ貸してください」
「それは……危険ですので」
(ループしたーーーー!! さては、おまえはNPCか!?)
そこで。
「エリナ」
背後から声がした。
振り返る。
灰銀色の髪。
昨日、私と二度キスした男。
イヴァンは朝食でも勧めるみたいな穏やかな顔をしていた。
「帰るの?」
「帰ります」
「うん」
「馬車を出してもらえません」
「そうみたいだね」
「舟も駄目。馬も駄目」
「昨夜はかなり荒れたから」
「……殿下が止めてるんですか?」
イヴァンは少し首を傾げた。
「僕は止めていないよ」
「本当に?」
「本当に」
嘘をついている顔には見えない。
実際、私に命令もしていない。
『ここにいろ』
『帰るな』
一度も言われていない。
なのに。
帰れない。
(何これ)
昨日まで、この人の何が好きだった?
なんでも私に聞いてくれるところ。
一人で勝手に決めないところ。
触る前にもちゃんと確認して待っていてくれるところ。
全部、今も変わっていない。
なのに怖い。
「……分かりました」
私は鞄を肩へ掛けた。
「歩いて帰ります」
玄関にいた全員が固まった。
「ベルティエ嬢!」
「道が悪いです!」
「危険です!」
「私の勝手です!」
叫んで、正門へ向かう。
誰も腕を掴まない。
門番すら、止めない。
門は本当に開いていた。
(ほら! 自由!)
私は外へ出た。
濡れた道へ靴を踏み出す。
一歩目で泥が跳ねた。
二歩目で裾が濡れた。
三歩目。
「エリナ」
「……」
振り向かない。
すぐ後ろまで足音が来る。
イヴァンだった。
手には外套。
「寒いよ。着てくれない?」
「嫌です」
「分かった」
即座に止まった。
(なんで)
(なんでそこだけ完璧なの!?)
怒りたいのに、怒る場所がずれる。
私は歩く。
イヴァンも少し離れて歩く。
「ついてこないでください」
「嫌?」
「……今は嫌です」
「分かった」
足音が止まった。
私は一人で進む。
自由。
誰も私に触らない。
誰も私を引き戻さない。
なのに道の先には、馬車が一台もない。
昨日までなら王家の離宮の客だと知るだけで、誰かがすぐ手配したはずだ。
南区ではイヴァンと歩くだけで人が道を空けた。
工房では名刺まで渡された。
私の実家には伯爵家から招待状が来た。
世界中の人が、私へ道を開け始めていた。
それなのに今は。
帰るための道だけが、何一つ用意されない。
(……まさか)
私は立ち止まった。
振り向く。
ずっと後ろにいたイヴァンが、そこで待っている。
追いかけてはこない。
私が呼ぶまで近づかないつもりらしい。
「殿下」
「うん」
「私は自由ですよね?」
「もちろん」
即答だった。
「好きな場所へ行っていい?」
「いいよ」
「学院へ帰っても?」
「君が帰りたいなら」
「じゃあどうして!」
声が震えた。
「どうして誰も帰してくれないの!?」
イヴァンがゆっくり近づく。
一歩。
二歩。
私の目の前で止まる。
手を伸ばすこともない。
逃げ道すら塞ごうとしない。
ただ私を見る。
その向こうに、開いた正門が見えた。
(門は開いてる)
(なのに)
私はやっと理解しかけていた。
シオンなら、たぶん私を閉じ込める。
鍵を掛けて。
危険だからここにいろ、と言う。
ディートリヒなら予定を決める。
アルノーなら痕跡を残そうとする。
でも。
イヴァンは違う。
「僕は君に、帰るななんて言ってないよ」
「……じゃあ何なんですか」
灰銀色の瞳が、ひどく優しい。
「君に命令する必要なんてないから」
「…………え?」
イヴァンは微笑んだ。
「君以外に命令すればいい」




