第三十八話 私の知らない私
『エリナ・ベルティエ 交友人物一覧』
私は、その文字を三回読んだ。
(一回目、見間違い。二回目、同姓同名。三回目――私だわ!!)
開いてはいけない。
人の書斎だ。
人の書類だ。
勝手に読むのは最低である。
分かっている。
でも、その紙の端から見えていた文字が悪かった。
『王立セレスタ高等学院 在籍』
『魔法史、領地経営論、魔法実技――』
「私じゃん……」
完全に私だった。
しかも授業の曜日まで合っている。
喉が乾く。
震える指で、一枚だけめくった。
『ミレイユ・ロラン――友人。問題なし』
『ノア――侍女。忠誠度高。問題なし』
「……忠誠度って何」
次。
『王都南区 導魔銀線工房――接触済』
『ベルティエ領灌漑案件――解決』
背筋が冷えた。
さらに下。
以前、私へ王子を紹介しろと絡んできた上級生の名前。
横には。
『国外』
夜会で嫌味を言ってきた令嬢。
『処置済』
そして。
脅迫状を送ってきた伯爵家。
『解決』
「…………」
(解決の字面が怖い!! 人間関係に使う『解決』じゃない!!)
紙を持つ手が震えた。
これは私が知っている私ではない。
私が受けた授業。
私が歩いた場所。
私が話した相手。
私が困ったこと。
全部、別の誰かの視点から整理されている。
その時。
「エリナ?」
背後から声がした。
心臓が跳ねた。
振り返る。
扉のところに、イヴァンが立っていた。
数時間前。
湖畔で私にキスした男。
私が自分から二度目をねだった相手。
同じ灰銀色の髪。
同じ穏やかな顔。
なのに今は、知らない人に見えた。
「……これは?」
声が自分でも驚くほど低くなった。
イヴァンは私の手元を見た。
「ああ」
「ああ、じゃありません」
「そうだね」
「何なんですか、これ」
紙を掲げる。
「私の授業も、外出も、実家のことも、友達のことも書いてある」
「うん」
「うん!?」
(肯定が軽い!! そこはせめて『誤解だ』とか言って!!)
「それに、この人たち」
私は名前を指で叩いた。
「国外。処置済。解決。何ですかこれ」
イヴァンは少し黙った。
それから。
「君が困っていたこと」
「……何をしたんですか?」
「色々」
「色々で済ませるな!!」
声が響いた。
イヴァンは怒らない。
こちらへ一歩来た。
私は反射的に一歩下がる。
机の縁が腰へ当たった。
逃げ道はある。
右へ行けば扉まで抜けられる。
イヴァンはそこを塞がない。
ただ、私の頬へ手を伸ばした。
「っ」
私が身を引く。
その瞬間。
手が止まった。
触れない。
「怖がらなくていい」
静かな声だった。
いつもと同じ。
私が嫌がれば止まる。
私が下がれば追わない。
(……なんで)
それが今は、一番怖い。
「これを作ったのは殿下ですか」
「僕だけじゃないよ」
「セルジュさんも?」
「手伝ってもらった」
さらりと答える。
「私が頼みました?」
「頼んでない」
「じゃあ、なんで」
「君が困っていたから」
「だからって!」
言葉が詰まる。
この人は私を閉じ込めていない。
服を決めていない。
会う相手を禁止していない。
私に何かを強制したことも、ほとんどない。
なのに。
私の周りだけが。
いつの間にか、都合よくなっていた。
伯爵家から増えた招待状も。
王都の店が私へ差し出す名刺も。
実家へ伸びた人脈も。
私は、王子たちに価値を吊り上げられているだけだと思っていた。
でもイヴァンの分だけは違う。
私が歩きやすいように、世界の方を並べ替えていたのだ。
(平和になったんじゃなかった)
(誰かが、平和にしてた……?)
胃の奥が冷える。
「……帰ります」
「うん」
即答だった。
「帰っていいんですか?」
「もちろん」
「止めない?」
「君が帰りたいなら」
イヴァンは道を空けた。
本当に。
扉まで一直線に歩ける。
(ほら)
(やっぱり、止めない)
胸の奥に、小さく安堵が戻る。
私は書類を机へ置いた。
「今日は帰ります。話は……あとで」
「分かった」
責めないし、追わないし、閉じ込めないし。
私は早足で書斎を出た。
廊下を曲がり、玄関へ向かう。
その途中。
どん、と窓が鳴った。
「え?」
外を見る。
さっきまで穏やかだった湖が、黒く波立っている。
風が木々を折れそうなほど揺らし、横殴りの雨が硝子窓を叩いていた。
「うそでしょ……」
雷。
遠くで馬の悲鳴。
玄関には使用人たちが集まり、馬車を出せる状態ではないと騒いでいる。
(待って待って)
(日帰り!! 私、泊まりではありませんからねって皆に宣言したのに!!)
背後に足音がした。
振り向く。
イヴァンがいる。
追い詰める様子もなく。
ただ穏やかに、窓の外を見た。
「帰る?」
「帰ります」
「うん」
「止めませんよね」
「もちろん」
笑う。
いつも通りの、優しい笑顔で。
「今夜帰れるならね」




