第三十七話 普通の恋をしました
「どうして?」
私が聞いても、シオンは答えなかった。
黒い瞳だけが、じっと私を見ている。
「……言いませんよ。たぶん」
「たぶん?」
「そこまで指定される筋合いはありません!」
私は両手を引き抜き、馬車へ逃げた。
(何なのもう! 『安心するって言うな』って、言葉まで嫉妬対象なの!?)
でも。
今日はイヴァンとの離宮デートである。
湖!
薔薇園!
日帰り!
(よし! 不穏な黒髪王太子はいったん脳内の棚にしまう!)
馬車が着いた先は、想像よりずっと静かな場所だった。
白い離宮の向こうに、鏡みたいな湖が広がっている。
玄関で荷物を預けた時、私の小袋からシオンの黒い印章がちらりと見えた。
老執事の目が一瞬だけ見開かれる。
「ヴァルディア王太子殿下の御印章を……ベルティエ嬢がお預かりなのですね」
「護身用です! 私は何の権限も使いませんから!」
なのに、その場にいた侍従たちの背筋が一斉に伸びた。
(やめて! 別国の王家離宮で他国王太子の印章を持ってる女とか、外交資料みたいな見え方するから!!)
「きれい……!」
「舟、乗る?」
「乗ります!」
小舟は二人が並んで座るには、絶妙に狭かった。
漕ぎ出すたび肩が触れる。
揺れるたび腿が触れる。
「っ」
(接触事故が定期運行してる!!)
「もう少し離れる?」
「いえ。このままで」
言ってから、自分の発言に自分で刺された。
(また私が延長したーーーー!!)
でもイヴァンは笑うだけで、それ以上近づいてこない。
湖の風が気持ちいい。
肩が触れるたび、心臓は跳ねる。
なのに嫌じゃない。
むしろ少し、嬉しい。
薔薇園では淡桃色の花が満開だった。
「動かないで」
「え?」
イヴァンの指が髪へ近づく。
でも直前で止まった。
「花弁。取っていい?」
「……はい」
さらり。
耳の横を指が通る。
髪から小さな花弁が一枚、摘まれた。
(毎回聞く!! 本当に毎回聞く!!)
「取れたよ」
「ありがとうございます」
なぜか耳だけ熱かった。
昼食は湖を望むテラスだった。
焼きたての白パン。
香草を利かせた鶏肉。
林檎と胡桃のサラダ。
最後には、薄く焼いた生地に煮林檎を重ねた温かいタルト。
「おいしい……!」
さくっとした生地のあとから、バターと林檎の甘い香りが広がる。
私はたぶん、ものすごく幸せそうな顔をしていた。
イヴァンも笑ってタルトを食べる。
「好きそうだと思って」
「全部?」
「全部」
「怖いくらい好みを把握されてますね」
「怖い?」
「今のところは嬉しいです」
そう言うと、イヴァンは少しだけ目を細めた。
夕暮れ。
湖畔は金色だった。
帰る時間が近づいている。
(楽しかったな)
それだけで胸が温かい。
普通に出掛けて。
普通に笑って。
普通に好きなものを食べて。
私はたぶん。
本当に、この人を好きになりかけている。
「エリナ」
「はい」
イヴァンが私を見る。
「キスしていい?」
心臓が止まった。
(来たーーーー!!)
前は無理だった。
私から頬へしようとして、唇まで一センチで逃げた。
でも今日は。
逃げたいより。
してみたい、が少しだけ勝った。
「……はい」
イヴァンの顔が近づく。
頬に触れる前、目で確認するみたいに一度止まった。
私が逃げないのを見て。
唇が触れた。
「……っ」
ほんの一瞬。
柔らかい。
温かい。
それだけ。
すぐ離れる。
「…………」
(終わった)
(キスした)
(私、王子様と普通に初キスしたーーーー!!)
心臓が限界だった。
なのに。
離れていくイヴァンの上着を。
私の手が掴んだ。
「……エリナ?」
「…………」
(手ぇぇぇぇ!! 何してんの!?)
でも離したくなかった。
今日が終わるのも。
この距離が終わるのも。
少しだけ嫌だった。
「……もう一回」
言った。
言ってしまった。
イヴァンの顔から、初めて余裕が消えた。
「……本当に?」
「聞き返さないでください! 恥ずかしくて死ぬ!」
「ごめん」
今度は笑わなかった。
もう一度、顔が近づく。
二度目のキスは、少し長かった。
「ん……」
(声! 今の声は存在しなかったことに!!)
唇が重なる。
息をする場所が分からない。
頭が真っ白になる。
イヴァンの腕が腰へ近づき――一度止まる。
灰銀色の瞳が私を見る。
私は逃げなかった。
次の瞬間。
腰へ腕が回った。
「……っ」
引き寄せられる。
胸が触れる。
お腹も。
腿まで近い。
(密着面積ーーーー!! 恋愛ってこんな全身競技なの!?)
思わず上着を強く掴む。
それでもイヴァンは、それ以上しなかった。
キスが終われば、ちゃんと腕も緩む。
私は真っ赤な顔で彼の胸へ額をつけた。
「……恋愛ってすごい」
「何それ」
「今、感想をまとめる語彙力がないんです」
イヴァンが笑った。
私も笑った。
幸せだった。
たぶん、今までで一番。
夜。
夕食後もぼんやりしていた私は、客室へ戻る途中で廊下を一本間違えた。
「あれ?」
半開きの扉。
書斎らしい。
「すみませーん……?」
返事はない。
戻ろうとして。
机いっぱいの書類が目に入った。
何気なく視線を向ける。
最上段。
そこにあった題名を読んだ。
『エリナ・ベルティエ 交友人物一覧』
「…………え?」




