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婚約破棄されたので勉強に専念したいモブ令嬢ですが、何故か攻略対象のヤンデレ王子たちが私にだけ執着溺愛してきて全然集中できません  作者: NIKE


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第三十五話 あなたといると安全です

「灰色の王子?」


 私が聞き返した瞬間、通りすがりの男は逃げた。


 本当に、逃げた。


 顔色を真っ青にして、脇道へ消えた。


「……殿下?」


「昔のあだ名だよ」


 イヴァンは私を抱いたまま、困ったように笑った。


「政治の場では、髪や目の色から妙な呼ばれ方をすることがあるんだ」


「そんなものですか?」


「そんなもの」


(王族、厨二病みたいな異名まで標準装備なの?)


 まあ、本人がそう言うならそうなのだろう。


「ところでエリナ嬢」


「はい」


「もう泥は越えたけど」


「…………降ろしてください」


 即座に地面へ戻してもらった。


(延長した事実まで忘れてください!!)


 その時は、それで終わった。


 問題は翌日だった。


 魔法実技を終えて教室を出ると、ノアが青い顔で待っていた。


「お嬢様。こちらが……」


「何?」


 差し出された封筒には、見覚えのある伯爵家の紋章。


 舞踏会で何度か顔を合わせた令嬢の家だった。


 開く。


 読む。


 そして私は三行目で固まった。


『身の程を知りなさい』

『四王子の御心を弄ぶような真似を続けるなら、あなた自身だけでは済みません』

『ベルティエ家が王都で得たものなど、失う時は一瞬です』


「…………」


(怖っ)


 冗談抜きで怖い。


 最近、私は知らない間に値札を剥がされ、別の値札を貼られ続けている。


 シオンに守られている女。

 アルノーに特別な品を作らせる女。

 ディートリヒの最高級品すら断る女。

 イヴァンの人脈を動かす女。


 結果。


『ただの子爵令嬢』だった私は、いつの間にか『下手に触ると四国の王族が出てくる女』になっていたらしい。


(望んでません!! その肩書き返却窓口どこ!?)


 でも、怖いものは怖い。


 家まで書かれている。


 父や母に何かあったら。


 そう思った瞬間、指先が冷えた。


「大丈夫ですか?」


「大丈夫」


 ノアに答えた声が、自分でも分かるくらい硬い。


「これくらい。脅し文句ですよ」


 強がった。


 その日の領地経営論は、ほとんど頭に入らなかった。


 夕方。


 中庭でイヴァンを見つけた時。


 私は十秒くらい迷った。


 昨日までなら、笑って近づけた。


 今日は。


「エリナ嬢?」


 気づかれた。


「顔色悪いよ」


「……ちょっとだけ、嫌なことがありまして」


 隠すつもりだったのに。


 声を聞いたら、駄目だった。


「少しだけ……そばにいてもらえます?」


 言ってから唇を噛んだ。


(出た。弱った時だけ男に寄りかかる女。私です)


「もちろん」


 イヴァンは何も聞かず、隣へ座った。


 近いけれど、触れない。


 それがありがたくて。


 逆に、もっと近づきたくなった。


「……脅迫状が来ました」


 手紙を見せる。


 読んだイヴァンの表情が、一瞬だけ消えた。


 本当に一瞬だった。


「怖かった?」


「別に」


「エリナ嬢」


「……ちょっと」


「うん」


「家のことまで書かれると、ちょっとだけ」


 情けない。


 でも次の瞬間。


「抱いても?」


 聞かれた。


 私は黙って頷いた。


 両腕が、ゆっくり私を包む。


「……っ」


 胸へ顔を埋める。


 服越しに伝わる体温。

 背中へ回った腕。

 頭の上へ、そっと顎が触れる。


(あったかい……)


 押さえつけられているんじゃない。


 逃げようと思えば、逃げられる。


 でも今は。


 逃げたくない。


 私の方からイヴァンの上着を掴んだ。


「もう少し」


「うん」


 腕の力が、ほんの少しだけ強くなる。


 怖かったものが、胸の外へ押し出されていくみたいだった。


「……殿下といると安全です」


 呟く。


 イヴァンの呼吸が止まった気がした。


「そう?」


「はい」


 私は目を閉じた。


「何かあっても、ちゃんと私に聞いてくれるし。勝手に決めないし」


「……うん」


「だから安心します」


 言ったあと。


 額へ、柔らかいものが触れた。


「…………」


 キス。


 すぐ離れた。


 許可を取られなかった、と気づいたのは一瞬後だった。


 でも。


 嫌じゃなかった。


 むしろ――物足りないと、思ってしまった。


「……そこだけ?」


 口から出た。


「…………」


「…………」


(今、何を言った私!?)


 イヴァンがゆっくり私を見る。


「エリナ嬢」


「今の忘れて!」


「難しいな」


「忘れてください!! 恐怖で判断能力が死んでただけです!」


「じゃあ次は、判断能力がある時に聞くよ」


「次を作らないで!!」


 私は真っ赤になって胸から離れた。


 でも。


 さっきまでの震えは、もう止まっていた。


 翌朝。


「え?」


 食堂でミレイユから聞いた話に、私は匙を落としかけた。


「昨日の夜、あの伯爵一家が王都を出たらしいわ」


「……誰が?」


「あなたに手紙を送った家よ。領地へ戻ったって」


「急に?」


「急に」


 背中がぞわっとした。


 昨日。


 私はイヴァンに手紙を見せた。


 怖いと言った。


 安全だと言った。


 そして今日。


 脅してきた一家が、王都から消えた。


「…………」


(いやいやいや)


(ないないない)


 私は無理やり笑った。


「……偶然、ですよね?」

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