第三十一話 最近、平和ですね
翌日になっても、私は前日の言葉を取り消さなかった。
「毎日でも会いたいくらい」
……言った。
確かに言った。
(いやでも“毎日会え”とは言ってないから! 願望と義務は別! 昨日甘えたから今日も甘える契約は発生してません!)
そこは大事である。
イヴァンもそこを分かっているらしく、翌朝から私の前へ張りついたりはしなかった。
魔法史の授業。
領地会計。
魔力制御の実技。
私は普通に授業を受け、普通に課題をこなし、昼になってから中庭でイヴァンと落ち合った。
(そう! これ! 会いたい時に会う! 会わない時間もちゃんと私のもの!)
しかも。
最近、妙に平和だった。
以前、廊下で進路を塞いで王子を紹介しろと言ってきた上級生。
気づけば学院を去っていた。
「家の都合で領地へ戻ったらしいよ」
ミレイユから聞いて、私は「あらまあ」と頷いた。
夜会のたびに嫌味を言ってきた令嬢も、突然国外留学が決まった。
「本人も前から希望していたらしいわ」
「へえ。よかったですね」
さらに実家の灌漑水路問題。
イヴァンから紹介してもらった専門家へ相談したところ、隣領との契約書の不備まで発見され、拍子抜けするほど円満に話がまとまった。
父から届いた手紙には、
『先方もずいぶん協力的でな。費用負担もこちらの希望に近い形になった』
とある。
「…………」
私は手紙を畳んだ。
「最近なんか平和ですね」
向かいのイヴァンが紅茶を飲みながら笑う。
「いいことだね」
「いいことです!」
(神様ありがとう! ようやく私の人生から攻略対象以外のトラブルが減ってきた!)
……攻略対象は減っていないけれど。
それでも今日は静かだ。
学院のティールーム。
窓からは午後の日差し。
卓上には焼きたての小さなフィナンシェ。
一口かじれば、縁はかりっと香ばしく、中はしっとり。
焦がしバターの濃い香りと蜂蜜の甘さがふわっと広がった。
「おいしい……!」
幸せ。
私は思わず頬を緩めた。
「エリナ嬢、本当に甘いものを食べる時いい顔するね」
「おいしいものは人類の味方ですから」
「それは名言だ」
イヴァンも一つ食べる。
柔らかく笑って、もう一つ取る。
(ああ平和。これが平和。男とお菓子食べてるだけ。誰も手袋を頬に当てない。私の予定表も作らない。宝石で部屋も埋めない)
窓の外を通った学生たちが、こちらを見ていた。
「またリュシエール殿下と……」
「最近は殿下の側近までベルティエ嬢の実家の相談に動いたそうよ」
「ベルティエ子爵家、王都の法務家と直接つながったんですって」
(待て待て待て)
私はフィナンシェを置いた。
(私の実家まで格上げしないで!? ただ水路を直しただけなんだけど……!?)
最近、学院だけではない。
母からの手紙には、これまでほとんど縁のなかった伯爵家から茶会の招待が届いたとか、王都商会から取引の打診が来たとか、不穏な報告まで増えている。
『エリナ。あなた学院で本当に何をしているの?』
(私が聞きたい!!)
会計と魔法を勉強しているだけのはずが、なぜ我が家の人脈まで勝手に成長しているのか。
「難しい顔してる」
「世間が私を放っておいてくれません」
「僕は放っておこうか?」
「今はいてください」
反射で答えた。
「……あ」
イヴァンが笑う。
「分かった」
(また! 私の口! 安心するとすぐ餌を撒く!!)
恥ずかしさをごまかすため、私は皿の最後のフィナンシェを取った。
そして。
「殿下も食べます?」
「うん」
「じゃあ――あーん」
差し出した。
「…………」
「…………」
(何してんの私)
手が止まった。
イヴァンも止まった。
(待って! これは恋人がやるやつ! 私は今なぜ自然な流れで王子へあーんを!? 喪女のくせに恋愛偏差値だけ突然飛び級するな!!)
「やっぱ今のなし――」
引っ込めようとした瞬間。
イヴァンが少し身を屈めた。
ぱく。
私の指先から、フィナンシェを食べる。
「…………っ!」
唇が。
触れた。
ような。
気が。
(指ーーーー!!)
私は勢いよく手を引っ込めた。
「おいしいね」
「そ、そうですね!」
「顔、赤いよ」
「あついんです!」
「温室じゃないよ、ここ」
「局地的に暑いんです!!」
イヴァンは楽しそうに笑っている。
私は指先を握り込んだ。
さっき触れた気がする場所だけ、妙に熱い。
(平和じゃない! 私の心臓だけ局地戦!!)
それでも。
嫌じゃなかった。
むしろ、楽しかった。
こんな日が続けばいい。
私は本気でそう思った。
――だから、その夜。
私の知らないところで交わされた会話なんて、知るはずもなかった。
「残り二件です」
セルジュの報告に、イヴァンは静かに頷いたという。
「同じように?」
「はい」
昼間、私が菓子を持っていた指を思い出すように。
彼は笑った。
「彼女には何も知らせないで」




