第三十話 今日はもっと近くてもいいです
「まだ無理です!」
私は反射的に叫んだ。
イヴァンの親指は、頬へ触れる寸前で止まった。
「分かった」
それだけだった。
顔を寄せてこなかった。
腰の手もすぐ緩んだ。
残念そうに笑いはしたけれど、追いこまれなかった。
(……無理やりされなかった)
胸の奥が、変なところでぎゅっとした。
断ったのは私なのに。
止まってくれたことが、ものすごく嬉しい。
(これだよ! これが普通の恋愛だよ! 嫌って言ったら止まる! 拒否がイベント失敗扱いされない!)
その日の帰り道、私はずっと上機嫌だった。
――そして数日後。
二度目のデート。
場所は、学院から少し離れた王立温室庭園だった。
巨大な硝子屋根の下には、季節外れの花が咲き乱れている。
魔法で温度と湿度を調整しているらしく、外気よりずっと暖かい。
「わあ……!」
淡い紫の花が、光を受けて細かくきらめいている。
「魔力に反応して光るんだって」
「魔法植物学で習いました! 実物初めてです!」
思わず近づくと、管理人が微笑んだ。
「ベルティエ嬢でしたら、奥の観察区画もご覧になりますか?」
「え、私?」
「リュシエール殿下から、植物魔法に興味がおありだと伺っております」
(情報共有されてる!?)
でも、勝手に何か買われたわけでも、私の予定を変えられたわけでもない。
見たいなら見られるようにしてくれただけだ。
(イヴァン殿下、人脈の使い方まで優等生……!)
奥の区画をたっぷり見学したあと、私たちは噴水のそばの長椅子へ座った。
歩き疲れて、足がだるい。
風が気持ちいい。
隣のイヴァンの肩を見る。
「……殿下」
「うん?」
「肩、借りても?」
言った瞬間、自分で自分に驚いた。
(私から!? 今、私から密着申請した!?)
「もちろん」
イヴァンは動かない。
私が自分で距離を詰めるのを待っている。
そのことに安心して、そっと頭を預けた。
肩は思ったより硬い。
でも温かい。
(あー……楽)
シオンとは違う。
あっちは巨大な防壁に包まれる安心。
こっちは、横にいても呼吸ができる安心だ。
「髪を撫でてもいい?」
「……いいです」
指が髪へ触れる。
頭のてっぺんから、ゆっくり毛先へ。
優しい。
梳くように何度か撫でられるうち、身体から力が抜けていく。
(何これ……猫ってこういう気分なの……?)
指先が耳の後ろへ来たところで、ぴたりと止まった。
「ここは?」
「え?」
「触れても平気?」
聞かれて、逆にそこを意識した。
(耳の後ろ!! 急に高難度部位!!)
でも嫌じゃない。
「……そこも大丈夫です」
答えると、指がそっと耳の後ろをなぞった。
「っ」
くすぐったい。
なのに、ぞわっと背筋まで震える。
(大丈夫って言った手前、今さら変な声出せない! 耐えろ喪女! これは健全な頭部マッサージ!!)
指はさらに下へ。
髪の生え際から、首筋へ近づく。
また止まった。
イヴァンは何も言わない。
私を見るだけ。
(いちいち待っていてくれる……)
その待ち方が、ずるい。
私が拒否できる。
私が止めていい。
だからこそ、自分から「いい」と言いたくなる。
「……そこも」
「うん?」
「大丈夫です」
私が許可すると、指先が首筋すれすれをゆっくり撫でた。
「……っ」
今度は本当に肩が跳ねた。
「やっぱりやめる?」
「や、やめなくていいです!」
(何で継続申請してるの私!!)
でも離れてほしくなかった。
私はもう少しだけイヴァンの肩へ体重を預けた。
花の香り。
噴水の音。
髪を撫でる指。
全部が穏やかだった。
「殿下といると、本当に安心します」
ぽろっと出た。
イヴァンの手が止まる。
「安心?」
「はい」
私は笑った。
「変に気を張らなくていいというか。嫌ならやめてくれるって分かってるから」
言いながら、胸の奥まで温かくなる。
「毎日でも会いたいくらい」
イヴァンが完全に止まった。
(あ)
(何か今、重要ワードを投げた気がする)
「……毎日?」
「毎日“でも”です! 比喩です!」
「でも、会いたい?」
「そりゃ、楽しいですし」
私は顔を上げた。
灰銀色の瞳が、驚くほど真剣にこちらを見ていた。
(そんな顔するほど!?)
でも嫌な感じはしない。
むしろ、ちょっと嬉しい。
私はまた肩へ頭を戻した。
「殿下なら、毎日会っても疲れなさそうです」
イヴァンの指が、もう一度髪を撫でる。
今度はさっきよりゆっくり。
「エリナ嬢」
「はい?」
「その言葉」
「明日になって取り消さない?」
私は思わず笑った。
「取り消しませんよ」




