第二十九話 これが普通の恋愛……!
――必ず、帰ってきてくれ。
その言葉を背中に刺したまま、私はイヴァンの馬車へ乗った。
(何なのあの人! 送り出す顔して最後に鉤爪だけ引っかけてくるのやめて!)
でも今日は初デートだ。
正式な。
普通の。
束縛なしの。
私は気持ちを切り替え、向かいに座るイヴァンを見た。
「今日はどこから行く?」
「書店です!」
「即答だね」
「新しい領地会計の実務書が入ったんです!」
イヴァンが笑った。
「知ってる。取り置きを頼んであるよ」
「え?」
「前に欲しいって言ってただろう?」
「あれ覚えてたんですか?」
「もちろん」
(はい好きーーーー!!)
人の予定を勝手に組むんじゃない。
私が欲しいと言ったものを覚えている。
(これ! 記憶力の正しい使い方! 使用済み手袋の摩耗位置を覚えたり行動予定表を作ったりするためじゃない!)
王都の書店では、欲しかった本がきちんと一冊だけ用意されていた。
しかも会計本の隣に、魔法式を使った灌漑設備の新刊まである。
「これも興味あるかと思って」
「あります!」
思わず本を抱える。
「殿下、すごい。私の好きなもの分かってますね」
「嬉しいな」
さらっと笑う。
(この王子、加点しかしてこない)
次は菓子店。
店先からもう、焼いた砂糖とバターの香りがする。
出てきたのは小さな林檎のパイだった。
薄い生地はぱりぱり。
中の林檎は酸味を残したまま、とろっと甘い。
「おいしい……!」
一口で頬が緩む。
イヴァンも食べて、幸せそうに目を細めた。
「本当だ。君が林檎のお菓子を好きなのも覚えておいて正解だった」
「そこまで覚えてるんですか?」
「好きな人の好きなものだからね」
「ぶっ」
危うくパイを噴くところだった。
(普通の男は『好き』を会話に自然混入させるの!? なんなの!? 誰か説明書ちょうだい!!?)
市場では、刺繍糸と魔法実技用の小さな魔石を見た。
イヴァンは「これがいい」と決めない。
私が迷えば一緒に見てくれた。
聞けば自分の気持ちを言ってくれた。
でも、最後に選ぶのはいつ私。
楽しい。
本当に、ただ楽しい。
ただ一つ。
店主たちが妙に私へ丁寧なのが怖かった。
「ベルティエ嬢、こちらもぜひ」
「リュシエール殿下がお連れになる方でしたら――」
「私だけなら普通の客として扱ってください!」
思わず叫ぶ。
(また値札が上がってる! 王子の隣を歩くだけで社会的レア度を勝手に上げないで!)
イヴァンは店へ特別扱いを命じたりしなかった。
むしろ私が困っているのを見ると、
「彼女が嫌がってるから、いつも通りでお願い」
とだけ言った。
(満点!!)
夕暮れ。
最後に入った店の二階には、小さなテラスがあった。
橙色の空。
王都の屋根。
広場から流れてくる弦楽器の音。
「踊る?」
イヴァンが聞く。
「ここで?」
「嫌なら座って聞くだけでもいい」
「……少しなら」
差し出された手へ、自分から手を置いた。
もう怖くない。
イヴァンのもう片方の手が腰へ回る。
「ここ、いい?」
「はい」
手のひらがドレス越しに触れた。
(腰を振れられるなんて、前なら大事件だったのに、私の接触耐性どうなってるの!? 攻略対象に鍛えられてる!?)
ゆっくり踏み出す。
一歩。
二歩。
音楽に合わせて身体を揺らすだけの、簡単な踊り。
風が髪を揺らす。
近い。
イヴァンの胸も、腕も。
でも苦しくない。
ふと、腰へ置かれた手を意識して身体が硬くなった。
その瞬間。
イヴァンの手の力が、すっと緩んだ。
「……あ」
「近すぎた?」
「いえ」
「離そうか?」
「……そのままで」
自分で言って、自分で赤くなる。
(私から延長申請したーーーー!!)
でも嬉しかった。
嫌がったら離れる。
怖がったら待つ。
だから、自分から「いい」と言える。
(これが普通の恋愛……!)
胸の奥がじんわり温かくなった。
曲が終わる。
でも私たちは、すぐには離れなかった。
灰銀色の瞳が近い。
こんな距離まで来ても、私の答え一つで全部止まる。
その安心が、逆に私をここへ残していた。
夕焼けの光の中で、イヴァンが私を見る。
「エリナ嬢」
「はい」
「キスしても?」
「…………」
脳が停止した。
(キス!?)
(普通の恋愛ってここまで来るの早くない!? いやデートだから普通!? 初デートでキスって一般的!? 前世喪女に統計データがない!!)
イヴァンは動かない。
私の腰にある手にも力を入れない。
ただ待っている。
私が決めるのを。
それが分かるから、逃げる理由がなくなる。
心臓が痛いくらい鳴った。
「えっと……」
声が震える。
イヴァンの片手がゆっくり上がる。
頬へ近づく。
でも。
まだ触れてない。
親指は、私の頬からほんの少し離れたところで止まっていた。
逃げるなら今。
目を閉じるなら――今。
私は息を呑んだ。




