第二十六話 好きです、そういうところ!
「今度は、どこまで触っていい?」
花火の音より、私の心臓の方がうるさかった。
「きょ、今日は手までです!」
「分かった」
即答。
イヴァンはそれ以上近づかなかった。
腰にも頬にも触れない。
絡めた指だけ、そのまま。
(止まった!! 『今日は』を都合よく拡大解釈しない!! 優良物件すぎて逆に怖い!!)
結局、祭りの帰り道もずっと手をつないだままだった。
でも宿舎の前へ着くと、私が離すより先にイヴァンが手を緩めた。
「おやすみ、エリナ嬢」
「……おやすみなさい」
(正常! 正常だよこの王子!!)
私はかなり浮かれていた。
――翌日の昼までは。
「うーん……」
魔法制御学の授業後。
私は食堂の隅で、実家から届いた手紙を睨んでいた。
ベルティエ領で使っている古い灌漑水路の一部が壊れたらしい。
修理自体はできる。
問題は、隣領との境界を跨ぐ場所なので、費用負担と今後の管理をどう決めるかだった。
父は大事にしたくない。
でも曖昧にすると後で揉める。
(分かる。分かるけど、こういう実務を学ぶために学院へ来た私に、いきなり実家から実戦問題を投げないで! まだ授業で例題を解いてる段階です!!)
「難しい顔してるね」
「ひゃっ」
顔を上げると、イヴァンがいた。
「隣、いい?」
「どうぞ」
彼が座る。
勝手に手紙を覗かない。
(はい加点)
「実家からちょっと面倒な話が来まして」
私は事情を説明した。
「水路の修繕自体は急いだ方がいいんです。でも費用を全部こちらで持つのも違う気がして。かといって隣領と揉めたらもっと面倒で……」
「なるほど」
イヴァンは少し考えた。
私は身構える。
(王子パワーで『僕が話をつけておくよ』とか来るか? 来たら減点ですよ!)
「こういう境界水利に詳しい人を知ってる」
「え?」
「王都にいる領地法務の専門家。必要なら紹介するよ」
「……紹介だけ?」
「うん」
イヴァンが不思議そうに瞬く。
「話を聞いて、頼むかどうか決めるのは君だよ」
「…………」
「費用も条件も、納得できなければ断ればいい」
「…………殿下」
「何?」
私は両手で彼の手を掴んだ。
「好きです! そういうところ!」
言ってから周囲が静かになった。
(あ)
近くの席の学生たちが、こっちを見ている。
「またベルティエ嬢……」
「今度はリュシエール殿下に?」
「殿下の領地顧問を紹介していただけるらしいわ」
(情報伝達が早すぎる!! 学院の噂網、魔法通信より性能いいんじゃない!?)
しかも最近の私は、
シオン殿下に庇護され。
アルノー殿下に指輪を直され。
ディートリヒ殿下の最高級品を断り。
今度はイヴァン殿下から専門家への道まで開けてもらっている。
(やめて! 『王子を誑かす女』から『王子経由で何でも通せる女』へ進化させないで!! 私は普通に勉強して普通に領地実務を覚えたいだけ!!)
「エリナ嬢」
「はい?」
握ったままの手を、イヴァンが見た。
「これは?」
「え」
彼の指が、私の手をゆっくり握り返す。
強くない。
逃げようと思えば離せる力。
「これは、いい?」
「……これはいいです」
「分かった」
それだけで終わる。
(ほら!! こういうところ!!)
昨日の祭りでもそうだった。
私が決める。
彼は待つ。
だから安心する。
だから自分から近づける。
――と思った瞬間。
「じゃあ、これは?」
握った手が、ゆっくり持ち上がった。
「え」
イヴァンの口元へ。
(待って待って待って! 質問の難易度が一気に上がった!!)
私の手の甲と彼の唇の間は、ほんの数センチ。
でも触れない。
灰銀色の瞳が私を見ている。
待っている。
拒否をすれば、きっと止まってくれる。
(それが分かってるから困るんだよ!!)
アルノーの指輪キスとは違う。
今度は金属越しじゃない。
私の肌に直接。
口づけ。
「……嫌ならやめるよ」
イヴァンが静かに言った。
その言葉で、逆に逃げる理由がなくなった。
喉が鳴る。
「……いい、です」
言った。
(言ったーーーー!! 喪女、自分から手の甲キス許可しました!! 前世の私に報告したら卒倒する!!)
「ありがとう」
指先を支えられる。
次の瞬間。
唇が、手の甲へ触れた。
「…………っ!」
柔らかい。
熱い。
たった一瞬なのに、そこから腕を伝って心臓まで熱が走ったみたいだった。
(心臓!! 落ち着け!! これは挨拶文化! たぶん! 知らんけど!!)
なのにイヴァンはすぐ離れない。
一呼吸だけ。
私の手を大切なものみたいに持ったまま、静かに口づけている。
心臓が爆発寸前になった。
「ひ、人としてですから!」
反射で叫んだ。
イヴァンが唇を離す。
「僕はまだ何も言っていないけど」
「…………」
(墓穴ーーーー!!)
「違います! 今のは予防線です!」
「何の?」
「恋愛方面へのです!」
「意識しちゃった?」
「帰ります!!」
立とうとした私の手を、イヴァンは掴まない。
ただ、私の真っ赤な顔を見上げて笑った。
優しい。
穏やか。
やっぱり安全。
(だから余計に心臓に悪い!!)
私は知らなかった。
この人が、私の自由を尊重するためなら――私の周りの世界の方を整えようとする人だということを。
イヴァンはもう一度、私の手の甲へ視線を落とした。
「エリナ嬢」
「……何ですか」
灰銀色の瞳が、今度は私の顔へ上がる。
「次は」
一拍。
「ここじゃなくても?」




