第十五話 その手袋、捨てるならください
「最後。これは少し動かないで」
私の薬指が、アルノーの唇のすぐ前まで持ち上げられた。
吐息が指先に触れそう。
(来る!? これ来るやつ!? 指にキスするやつ!?)
前世で見た、あの有名スチルが頭をよぎる。
薬指。
白金の髪。
伏せられた睫毛。
美しすぎる横顔。
(いや待って待って! 原作ヒロインじゃない! 私モブ! しかもまだ指輪すら直ってない!!)
心臓がうるさい。
逃げようにも「動かないで」と言われたばかり。
どうしよう。
どうする私。
その時。
「うん。分かった」
「…………はい?」
アルノーは何事もなかったように私の手を下ろした。
「この太さなら大丈夫」
「…………」
「エリナ?」
「…………目盛り?」
「うん」
絹紐についた小さな印を見せられた。
ただ顔を近づけて、細かい目盛りを見ていただけだった。
(私だけキスされると思ってたーーーーー!!)
「顔、赤いね」
「暑いんです!」
「工房、涼しいけど」
「心が暑いんです!」
「そう」
そこで納得するな。
もう帰りたい。
私は逃げるように手を引き、鞄へしまおうとした。
するとアルノーの視線が、私の手元で止まる。
「その手袋」
「え?」
今日つけていた薄茶色の手袋。
長く使っているせいで、指先が少し擦れている。
「古いね」
「そろそろ替えようと思ってます」
「捨てる?」
「たぶん」
「じゃあ僕にちょうだい」
「嫌です」
即答した。
アルノーが瞬きをする。
「どうして?」
「どうして欲しいんですか!?」
「資料にする」
「何の!?」
「君の手の」
(怖い怖い怖い!!)
「手なら今めちゃくちゃ測りましたよね!?」
「数字だけじゃ分からないこともある」
「例えば?」
「どこが擦れるか。どこに皺が寄るか。指を曲げた時、布がどう馴染むか」
さらさらと答える。
理屈だけ聞けば芸術家らしい。
でも対象が私の使い古した手袋だと思うと一気に怖い。
「嫌ならいいよ」
アルノーはあっさり引いた。
「無理に欲しいわけじゃない」
(……そう言われると)
私は手袋を見る。
どうせ捨てる。
祖母の指輪も直してもらっている。
それに、さっき彼の手を褒めた時の、ほんの少し嬉しそうな顔まで思い出してしまった。
(まあ……資料なら)
「……本当に作品の資料にするだけですよ?」
「うん」
「変なことに使わない?」
「変なことって?」
「それを聞き返すのやめてください!」
結局。
私は手袋を外して、アルノーへ渡した。
彼は両手で受け取った。
宝石でも預かったみたいに、丁寧に。
「ありがとう」
その声が思ったより嬉しそうで。
(……まあ、捨てるものだし)
ちょっとだけいいことをした気分になった。
「代わりに、これ」
アルノーが棚から細長い箱を持ってくる。
中には真新しい白い手袋。
「え、これ高そう」
「僕が作った」
「手袋まで作るんですか!?」
「装身具の一部だから」
試して、と言われて手を伸ばす。
自分で取ろうとしたら、アルノーが先に一枚持った。
「入れて」
「……自分でできます」
「知ってる」
じゃあ何で。
そう言う前に、彼が手袋の口を広げる。
私は迷って。
指先を入れた。
まず小指。
次に薬指。
一本ずつ、布が指へ吸いつくように通されていく。
アルノーの指が布越しに私の指の形をなぞる。
(手袋! 手袋を着けてもらってるだけ! なのになんでこんな手厚い接触イベントみたいになってるの!?)
「力抜いて」
「抜いてます!」
「硬い」
「誰のせいですか!」
中指。
人差し指。
親指。
最後に掌まで滑らせ、手首を整える。
「ぴったり」
「……すごい」
本当に。
驚くほど手に馴染む。
柔らかな布が指の動きへついてきて、何も着けていないみたいに軽い。
「綺麗……」
素直に声が漏れた。
アルノーの目が少しだけ柔らかくなる。
「君の手に合わせたから」
(そういうことさらっと言うな!!)
最後に手首の小さなボタンを留める。
固いらしく、アルノーが顔を寄せた。
私の手首が、また彼の唇の近くへ。
(今日この口元に私の手を近づけるノルマでもあるの!?)
「できた」
「……ありがとうございます」
私は逃げるように工房を出た。
数歩進んで。
ふと、忘れ物がないか気になって振り返る。
半開きの扉の向こう。
アルノーがいた。
さっき渡した、私の古い手袋を手にしている。
そして。
その柔らかな布を、自分の頬へそっと当てていた。
「…………」
目が合った。
アルノーはまったく悪びれない。
むしろ静かに首を傾げる。
「……返してほしくなった?」




