第十一話 今夜だけは帰らないでください
シオンの顔が、さらに近づいた。
(来る来る来る来る!!)
心臓が喉まで上がってくる。
鼻先が触れそう。
視線が唇へ落ちる。
(え、これキス!? いや待って私たち付き合ってない! そもそも私は攻略対象と恋愛しないって――)
「まだついてる」
「…………はい?」
シオンの親指が、私の口元をもう一度なぞった。
今度は下唇のすぐ下。
白い粉が、指先にほんの少しついている。
「取れた」
「…………」
キスじゃなかった。
(期待したみたいになったーーーー!!)
「顔が赤い」
「紅茶が熱かったんです!」
「もう冷めている」
「心が熱いんです!」
前にも似たようなこと言ったな私。
もうやだ。
私はその日、逃げるように談話室を出た。
そして夜。
人生は、逃げた女にちゃんと追撃してきた。
王宮宿泊行事で泊まっていた客室の窓が、雷鳴とともに震えた。
ドォン!!
「ひっ!」
布団の中で身体が跳ねる。
私は雷が苦手だ。
嫌いとかいう可愛い話じゃない。
暗い。
大きな音。
逃げ場のない部屋。
地下資料室で閉じ込められた時の記憶まで一緒に蘇る。
(無理無理無理。寝れない。絶対寝れない)
ノアは別室。
呼べば来てくれるだろう。
でも、なぜか。
頭に浮かんだのは別の人だった。
「…………」
やめよう。
その男は危険。
原作監禁王子。
私は布団を頭までかぶる。
ドォン!!
「無理!!」
十分後。
私は廊下にいた。
(何してんの私)
しかも、ちょうど向こうから歩いてくる黒髪の男を見つけてしまった。
シオンも私に気づく。
「エリナ?」
「…………」
「どうした」
帰れ。
部屋へ帰れ私。
「……今、少しいいですか」
(呼び止めたーーーー!!)
数分後。
シオンは私の客室にいた。
椅子に。
「そこから動かないでくださいね」
「ああ」
「今夜だけですからね」
「ああ」
私はベッドへ入る。
これで大丈夫。
人がいる。
しかも頼れる人。
ドォン!!
「…………殿下」
「いる」
「もう少しだけ近くに来てもらえます?」
シオンが椅子をベッドの近くへ移した。
(近づけたーーーー!!)
いや、まだ椅子。
セーフ。
目を閉じる。
ドォン!!
「…………手」
「何だ」
「手、貸してください」
差し出された大きな手を、私は布団の中から両手で掴んだ。
温かい。
地下資料室の時と同じ。
指先に力を入れると、シオンもほんの少しだけ握り返してくれる。
(ああ……これだ)
怖さが薄れる。
代わりに別の意味で心臓がうるさくなるけど、それは知らないふりをした。
「ベッドに座ってもいいか」
「……椅子だと手が遠いので」
「許可だと思っていいか」
「そうです!」
シオンがベッドの端へ腰掛ける。
寝台がわずかに沈んだ。
近い。
肩。
腕。
胸。
寝転がっている私から見ると、男の身体って大きい。
(いや待って。夜。ベッド。男。二人きり。これ字面だけなら完全に何か始まるやつでは!?)
始まりません。
雷対策です。
私は健全です。
ドォン!!
「きゃっ!」
また身体が跳ねた。
気づけば私は起き上がって、シオンの腕へしがみついていた。
「…………」
「…………」
(もう知らん)
怖いものは怖い。
私はそのまま額を彼の胸元へ押しつけた。
硬い胸板。
服越しの熱。
耳を近づければ、どくん、どくん、と規則正しい心音。
不思議なくらい落ち着く。
「……心臓の音がすると安心します」
言った瞬間、シオンの呼吸が一度止まった。
(あれ、今なんかヤバいこと言った?)
でも眠気が勝ってきた。
怖さが引いたぶん、一気に身体が重くなる。
私はシオンの胸へ頬を預けたまま、彼の襟元を掴んだ。
「エリナ」
「……はい」
「もう大丈夫か」
「たぶん……」
「なら俺は戻る」
身体が離れようとする。
嫌だった。
反射で襟を強く掴む。
「待って」
シオンが止まる。
「……帰らないでください」
「…………」
「今夜だけ」
自分でも恥ずかしい。
でももう瞼が重い。
「朝まで……いて」
返事を待つより先に、私はまた彼の胸へ頬を押しつけた。
すぐ上から、低い声が落ちてくる。
「それを俺に言って、明日後悔しないか?」
たぶん。
ものすごくする。
でも、その時の私はもう。
答える前に眠っていた。




