39:ありがとう
その夜、私はエリック様の部屋を訪れた。
扉をノックすると、すぐに「どうぞ」と声が返ってくる。
部屋に入ると、エリック様は少し驚いたように目を瞬かせたが、すぐに穏やかな表情になった。
「どうしたんだ、こんな時間に」
「えっと……その……ルネのこと、ありがとうございましたって、言いたくて……」
私が頭を下げると、エリック様は小さく笑った。
「なんだ、別にいいのに。俺はお礼を言われるようなことはしていないよ。俺のやりたいようにやっただけだ」
「でも……それでも私は、とても嬉しかったので。お礼はちゃんと言わないと……」
「ははっ。相変わらず律儀だな。……まあ、そういうところが好きなんだけど」
「へっ!?」
あまりにも自然に言われたので、私は思わず頬を染めてしまった。
「どうする? お茶でも飲んでいくか? それとも酒?」
「えっと……お、お酒はシーズン中に浴びるほど飲んだので、お茶で……」
「お茶も浴びるほど飲んでいた気がするけどな。わかった、すぐに用意する。ソファに座っていてくれ」
エリック様はそう言うと、慣れた手つきでハーブティーを淹れてくれた。
ラベンダーの香りがふわりと部屋に広がる。
私はお茶を一口飲み、ふぅ、と息を漏らした。
それをため息だと思ったのか、エリック様が心配そうに顔を覗き込む。
「……エチカ。もしかして、まだ何か悩んでいるのか?」
「い、いえ……そういうわけでは……」
私は俯いたまま、慌てて首を横に振った。
別に、悩んでいるわけではない。
けれど言いたいことが言えていないのは、確かだ。
私はしばらく迷った末、夜着の裾をぎゅっと握りしめ、思い切って口を開いた。
「あ、あの……!!」
「ん?なんだ?」
「えっと……あの……その……。い、一緒に……寝ても、いいですか……?」
言った。言ってしまった。
口からこぼれた瞬間、心臓が跳ねて、私は恐る恐るエリック様を見上げた。
するとエリック様は、ぽかんと目を見開いてこちらを見ていた。
「……え?」
「だ、だめ……、ですか……?」
「ダメじゃない!ダメじゃない……けど……。どうして急に……」
「き、急じゃないです!本当はずっとどうにかしなくちゃいけないとは思ってて……」
実は私たち、和解してからもずっと、キスすらしていない。
それは、私が過去の出来事をまだ完全には乗り越えられていないからだ。
だけど、ずっとこのままではいいわけがない。私は、ちゃんと向き合わなければならない。
「……エリック様が私の事をとても大切にしてくれているのは、わかっています。過去のことを後悔しているのも、だから私に触れるときはいつも少し躊躇うのも……。それはすごくありがたいんですけど、でも同時に、ちょっと寂しくもあって……」
「エチカ……」
「今日、ルネの事を知って、私……や、やっぱり、あなたの事がすごく、その、好きだな……って思ったりして……。だから、その……」
自分でも何を言っているのかわからなくなってきた。
恥ずかしさで顔が熱くて、視線を上げるのも怖い。
「つ、つまり、その……」
「エチカ、無理しなくていいんだぞ。俺は……急かすつもりはないから」
「む、無理なんてしていません!」
「でも……」
「無理とかじゃなくて……その、私は……」
私は大きく深呼吸をして、震える指先をぎゅっと握りしめた。
そして、勇気を振り絞って顔を上げ、まっすぐにエリック様を見る。
「私は……あなたと、もう一歩先に進みたいです!」
そう言った瞬間、エリック様が小さく息を呑んだ。
驚きと、どこか信じられないという色がその瞳に浮かぶ。
「そ、それは……意味をわかって言っているんだよな?」
「わ、わかってます! 私もお、大人ですから!」
「そうか、わかっているのか……。そうか」
「あ、でも……と、とりあえず……今日は、一緒に寝るだけでお願いしたいといいますか……。まずは……そこから慣れていきたいというか、その……」
言いながら、私は指先を落ち着きなくいじってしまう。自分でも情けないほど、もじもじしていた。
そんな私の様子を見て、エリック様がふっと笑みをこぼした。
「エチカ、そっちに行っても良いか?」
「え? あ、はい……」
私が返事をすると、エリック様は静かに席を立ち、向かいに座っていた私の隣に腰を下ろした。
急に近くなった距離に、胸がどきりと跳ねる。
エリック様は動揺する私の頬にかかっていた髪を指先でそっと払った。その仕草はわざとゆっくりとした動作で、私の反応を楽しむようにだった。
そして耳元に落ちた髪を整えながら、すぐそばで、低く柔らかい声が落ちてきた。
「いいよ、一緒に寝ようか」
その声音が、くすぐったいほど近い。
「……っ!?」
私は慌てて耳を押さえ、顔を真っ赤にしてエリック様を睨む。
「い、いまの……わざとですよね……!」
エリック様は、困ったように、でもどこか嬉しそうに笑った。
「や、やっぱり帰る!」
私は勢いよく立ち上がり、部屋を出ようとした。
けれど、その腕をそっとつかまれた瞬間、バランスを崩してしまい――
「きゃっ……!」
気づけば、私はエリック様の膝の上に座る形になっていた。
逃げようとしたのに、逆にさらに距離が近くなってしまって、心臓が跳ねる。
「す、すすすみません!」
私はすぐに離れようとした。
けれどエリック様は、ぎゅっと私を抱きしめた。
そして、小さく呟いた。
「……勇気を出してくれて、ありがとう」
その声は、本当に嬉しそうで、どこか感慨深くて。
私はそれ以上何も言えなくなってしまった。
結局私はされるがまま、しばらく抱っこされたまま動けずにいた。
彼の心臓の鼓動が心地よくて、社交と移動の疲れも相まって、徐々にまぶたが重たくなっていく。
私は気がつくとそのまま、彼の腕の中で眠ってしまっていた。
翌朝、彼の腕の中で目を覚ました私が悲鳴を上げたのは、言うまでもない。




