37:先輩のバカ(2)
「先輩のバカ!阿呆!間抜け!!」
庭に響いた声は、自分でも驚くほど大きかった。
エリック様は目を瞬かせ、戸惑ったように私を見つめる。
けれど私はもう、止まれなかった。
「エ、エチカ……?どうしたんだ……?」
「どうしたじゃない!!離婚って何よ!!私、別に離婚したいなんて言ってない!!」
「え……いや、その……」
「一ヶ月の猶予が欲しいって言ったの、そっちでしょ!?なのに、なんで勝手に終わらせるの!?意味わかんない!!」
ずっと心の奥に押し込めていた感情が、堰を切ったように溢れ出す。
「私のことが好きだって言うなら、もっと私のこと考えてよ!!先輩はいつもそう!私の言葉なんてちっとも聞いてくれない!!シルヴァン様とのことだって、私は何度も違うって言ったのに……!」
「そ、それは……」
「……あの夜だって、私は何度もやめてって言った。怖いって言った!でも先輩は聞いてくれなかった……!」
「……ごめん」
「謝られても許さない!!精神干渉魔法?そんなの知らない!!私がどれだけ傷ついたと思ってるのよ……!」
「エチカ……、ごめん……」
エリック様は私を宥めようと、そっと手を離す。だが、私はそれを反射的に振り払った。
「触らないで!!」
自分でも驚くほど強く、はっきりと拒絶の言葉が出た。
ハッとしてエリック様を見ると、彼は痛むように目を伏せていた。
その表情を見た瞬間、荒ぶっていた感情が少しだけしぼむ。
「……き、嫌いよ」
「……うん」
「先輩なんて大嫌い……」
「……うん、ごめん」
少しの沈黙が落ちた。
さっきまでの激しい感情が急に行き場を失ったように静まり返り、春の風が庭の草花を揺らしながら私たちの間を通り抜けていく。
冷静になった頭で、私は小さく、ぽつりとつぶやいた。
「……そう思えたら、どれだけ楽か……先輩にはわからない……」
「……え?」
エリック様が驚いたように顔を上げる。
その動きに合わせて彼の前髪がそっと揺れ、目が合った。
ずっと好きだった、透き通るような群青の瞳。その奥に小さく私が映っている。
――そのことが、どうしようもなく嬉しい
その事実を自覚した瞬間、胸の奥に押し込めていた何かが音を立てて崩れた。
頬を伝う涙は、気づけばもう止められなかった。
「先輩と結婚してから、しんどいことばっかりだった。何度も家に帰りたいって思った。でも、それでも私が歯を食いしばって耐えてきたのは好きだからよ……」
私は弱々しく呟いた。
私の言葉に、エリック様の目がかすかに揺れた。
「好きなの。どうしたって先輩のことが好き。……でも、信じられないの。先輩と離れたくない。けど、一緒にいて、傷つきたくない。私、もうどうしたらいいのかわからない……」
言葉が途切れ、私はその場に立ち尽くした。
涙の熱だけが頬に残り、風が触れるたびにひりつく。
さっきまでの怒りの余韻と、今の静けさの落差が胸に重くのしかかる。
エリック様はゆっくりと息を吸い、胸に手を当てるようにして、静かに口を開いた。
「離婚を切り出したのは……君のためみたいな言い方をしたけれど、本当は違うんだ。本当は、怖かったんだ。君から離婚を切り出されるのが怖くて、逃げただけだった」
「……」
「……エチカ、ごめん。勝手に離婚を決めて、ごめん。俺は何てバカなんだろうな。また、君の言葉を聞かずに、勝手に君の気持ちを決めつけて、結局また傷つけた」
「うん……」
「エチカ。ちゃんと話そう。俺、今度こそ……君の言葉を聞くから。絶対、最後までちゃんと聞くから」
「うん……!」
胸の奥がじんわりと温かくなって、私は大きく頷いた。
そして、気づけば両手を広げていた。
エリック様は一瞬だけ目を瞬かせ、困ったように肩をすくめる。
「それ、俺の都合のいいように解釈するけどいいのか?」
「……いい」
「後で突き飛ばしたりしないで欲しいんだけど、約束できる?」
「……多分」
「多分か……、それは困るな」
苦笑しながら、エリック様は一歩、また一歩とゆっくり近づいてくる。
その慎重さが、今の彼らしくて、胸が少しだけ痛んだ。
そして大きな腕が、そっと私を包み込んだ。
肩に触れる体温が、思っていたよりもずっと優しい。
早鐘のように打つ鼓動が、耳元で静かに響く。
その音に合わせるように、私の心臓もどんどん速くなる。
私はその背中に、そっと腕を回した。
ぎこちなくて、不器用で、でも確かに温かい抱擁だった。
* * *
それから、私たちはいろんな話をした。
これまでのこと、これからのこと、たくさん話した。
初めは少しぎこちなかった会話も、気づけば自然と声が出ていた。
そして最終的に、離婚の決定権は私が持つことになった。
私が「もう無理だ」と思ったら、いつでも離婚できるようにしてくれるらしい。
それはエリック様にとって、とても不利な条件だった。
けれど彼は、どこか晴れやかな顔でこう言った。
――今度は俺が頑張る番だから。もう一度、あの頃のように全力で、君に愛してもらえるように口説いていこうと思う。
と。
私たちの離婚が回避されたと知ったレイチェルは、安堵からか涙を流して喜んでくれた。
まだ出会って間もないのに、私のことでこんなふうに泣いてくれる彼女を見て、胸がじんわりと温かくなった。
私たちはこれからもう一度、夫婦として一からやり直していく。
すべてが元通りになるわけじゃない。戻らないものもある。
それでも、互いを尊重し、会話を重ねて、喧嘩をしながらでも前に進んでいくつもりだ。
本当は一つだけ、まだ向き合えていないことがあるけれど。




