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この溺愛にはウラがある  作者: 七瀬菜々


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37/40

37:先輩のバカ(2)

「先輩のバカ!阿呆!間抜け!!」


 庭に響いた声は、自分でも驚くほど大きかった。

 エリック様は目を瞬かせ、戸惑ったように私を見つめる。

 けれど私はもう、止まれなかった。


「エ、エチカ……?どうしたんだ……?」

「どうしたじゃない!!離婚って何よ!!私、別に離婚したいなんて言ってない!!」

「え……いや、その……」

「一ヶ月の猶予が欲しいって言ったの、そっちでしょ!?なのに、なんで勝手に終わらせるの!?意味わかんない!!」


 ずっと心の奥に押し込めていた感情が、堰を切ったように溢れ出す。


「私のことが好きだって言うなら、もっと私のこと考えてよ!!先輩はいつもそう!私の言葉なんてちっとも聞いてくれない!!シルヴァン様とのことだって、私は何度も違うって言ったのに……!」

「そ、それは……」

「……あの夜だって、私は何度もやめてって言った。怖いって言った!でも先輩は聞いてくれなかった……!」

「……ごめん」

「謝られても許さない!!精神干渉魔法?そんなの知らない!!私がどれだけ傷ついたと思ってるのよ……!」

「エチカ……、ごめん……」


 エリック様は私を宥めようと、そっと手を離す。だが、私はそれを反射的に振り払った。


「触らないで!!」


 自分でも驚くほど強く、はっきりと拒絶の言葉が出た。

 ハッとしてエリック様を見ると、彼は痛むように目を伏せていた。

 その表情を見た瞬間、荒ぶっていた感情が少しだけしぼむ。


「……き、嫌いよ」

「……うん」

「先輩なんて大嫌い……」

「……うん、ごめん」


 少しの沈黙が落ちた。

 さっきまでの激しい感情が急に行き場を失ったように静まり返り、春の風が庭の草花を揺らしながら私たちの間を通り抜けていく。

 冷静になった頭で、私は小さく、ぽつりとつぶやいた。


「……そう思えたら、どれだけ楽か……先輩にはわからない……」

「……え?」

 

 エリック様が驚いたように顔を上げる。

 その動きに合わせて彼の前髪がそっと揺れ、目が合った。

 ずっと好きだった、透き通るような群青の瞳。その奥に小さく私が映っている。


 ――そのことが、どうしようもなく嬉しい


 その事実を自覚した瞬間、胸の奥に押し込めていた何かが音を立てて崩れた。

 頬を伝う涙は、気づけばもう止められなかった。


「先輩と結婚してから、しんどいことばっかりだった。何度も家に帰りたいって思った。でも、それでも私が歯を食いしばって耐えてきたのは好きだからよ……」


 私は弱々しく呟いた。

 私の言葉に、エリック様の目がかすかに揺れた。


「好きなの。どうしたって先輩のことが好き。……でも、信じられないの。先輩と離れたくない。けど、一緒にいて、傷つきたくない。私、もうどうしたらいいのかわからない……」


 言葉が途切れ、私はその場に立ち尽くした。

 涙の熱だけが頬に残り、風が触れるたびにひりつく。

 さっきまでの怒りの余韻と、今の静けさの落差が胸に重くのしかかる。

 エリック様はゆっくりと息を吸い、胸に手を当てるようにして、静かに口を開いた。


「離婚を切り出したのは……君のためみたいな言い方をしたけれど、本当は違うんだ。本当は、怖かったんだ。君から離婚を切り出されるのが怖くて、逃げただけだった」

「……」

「……エチカ、ごめん。勝手に離婚を決めて、ごめん。俺は何てバカなんだろうな。また、君の言葉を聞かずに、勝手に君の気持ちを決めつけて、結局また傷つけた」

「うん……」

「エチカ。ちゃんと話そう。俺、今度こそ……君の言葉を聞くから。絶対、最後までちゃんと聞くから」

「うん……!」


 胸の奥がじんわりと温かくなって、私は大きく頷いた。

 そして、気づけば両手を広げていた。

 エリック様は一瞬だけ目を瞬かせ、困ったように肩をすくめる。


「それ、俺の都合のいいように解釈するけどいいのか?」

「……いい」

「後で突き飛ばしたりしないで欲しいんだけど、約束できる?」

「……多分」

「多分か……、それは困るな」


 苦笑しながら、エリック様は一歩、また一歩とゆっくり近づいてくる。

 その慎重さが、今の彼らしくて、胸が少しだけ痛んだ。


 そして大きな腕が、そっと私を包み込んだ。


 肩に触れる体温が、思っていたよりもずっと優しい。

 早鐘のように打つ鼓動が、耳元で静かに響く。

 その音に合わせるように、私の心臓もどんどん速くなる。


 私はその背中に、そっと腕を回した。


 ぎこちなくて、不器用で、でも確かに温かい抱擁だった。



 * * *



 それから、私たちはいろんな話をした。

 これまでのこと、これからのこと、たくさん話した。

 初めは少しぎこちなかった会話も、気づけば自然と声が出ていた。


 そして最終的に、離婚の決定権は私が持つことになった。

 私が「もう無理だ」と思ったら、いつでも離婚できるようにしてくれるらしい。

 それはエリック様にとって、とても不利な条件だった。

 けれど彼は、どこか晴れやかな顔でこう言った。


 ――今度は俺が頑張る番だから。もう一度、あの頃のように全力で、君に愛してもらえるように口説いていこうと思う。


 と。


 私たちの離婚が回避されたと知ったレイチェルは、安堵からか涙を流して喜んでくれた。

 まだ出会って間もないのに、私のことでこんなふうに泣いてくれる彼女を見て、胸がじんわりと温かくなった。


 私たちはこれからもう一度、夫婦として一からやり直していく。

 すべてが元通りになるわけじゃない。戻らないものもある。

 それでも、互いを尊重し、会話を重ねて、喧嘩をしながらでも前に進んでいくつもりだ。

 



 本当は一つだけ、まだ向き合えていないことがあるけれど。

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