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この溺愛にはウラがある  作者: 七瀬菜々


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36/40

36:先輩のバカ(1)

 別れようと言われた時、私は頷くことも首を振ることもできなかった。

 呆然としたまま部屋に戻り、そのままベッドに顔を埋める。

 今日は天気が良かったからだろうか。干してくれた布団からはお日様の匂いがした。

 

「離婚か…………」


 どんな言葉を向けられたとしても、もう心の底からエリック様を信じることはできない。そう思う自分がいる。

 まだ答えは出ていないけれど、きっとこれが互いにとって最善なのだろうとも思う。

 

 そもそもが間違っていたのだ。

 私みたいな庶民が、あのエリック・ド・モンフォールに恋をしたこと自体、分不相応だった。

 それなのに気持ちを返してもらえて、浮かれて、何も考えずに結婚した。馬鹿で、愚かで、間抜けだったのは私の方だ。


「あーあ。なんか、疲れちゃった」


 体を仰向けに返すと、視界に天井が広がる。

 その瞬間、頬を生ぬるい水滴が伝った。触れてみると、涙だった。


 私はどうして泣いているのだろう。

 別れるのが最善だと思っているはずなのに、どうして涙なんて流れてくるのか。

 もしかして、本当は別れたくないと思っているのだろうか。

 ああ、もうわからない。

 自分の気持ちが、自分でもよくわからない。

 どうしたらいいの?


「……ルネ」


 もういない親友の名を、意味もなく呟く。

 その夜、私は声にならないまま、ただ泣き続けた。



 * * *


 三日後には、離婚に関する書類がすべて整っていた。

 まるで最初から準備していたかのような速さだ。

 一ヶ月の猶予なんて、ただの建前だったのだろうか。

 エリック様も本当は、私との離婚を望んでいたのではないか。

 そんな考えが頭をよぎり、どうしようもなく虚しさが広がる。


 レイチェルは、泣き腫らした私の顔を見て心配そうに眉を寄せた。

 けれど今の私は、彼女に作り笑いを向けて「大丈夫」と強がることすらできない。

 

「あの……、奥様」

「何かしら?」

「こちら、書類に不備があったらしく、訂正して欲しいと旦那様が……」

「そう、ありがとう」


 遠慮がちに差し出された書類と、レイチェルの悲痛な眼差し。

 その視線に耐えられず、私は目をそらしたまま書類を受け取った。

 そのとき、書類の間から一通の封筒がはらりと落ちた。私はそれを拾い上げて首をかしげる。


「これは?」

「……さあ?旦那様からのお手紙、とかですかね?」

「……そっか」


 手紙を書くくらいなら、直接来てくれてもいいのに。

 あの夜以来、一度も顔を合わせていないエリック様を思い浮かべ、私は眉を顰めた。


 その後、レイチェルを下がらせた私は机に向かった。

 書類の不備を訂正するだけでなく、実家にも手紙を書かなければならない。

 公爵家に嫁いで出戻るとなれば、たとえ私に非がなくても噂は避けられない。

 そうなれば、一番迷惑を被るのは商売をしている両親だ。

 エリック様は「不利益にならないように配慮する」と言ってくれたけれど、世間の目まではどうにもならない。

 私は便せんを広げ、ペンを取った。


 けれど、言葉が出てこない。


 両親はきっと、出戻った私を責めたりしない。

 生活の面倒も見てくれるだろうし、私自身魔法師資格があるから仕事にも困らない。

 だから私はただ、離婚することと、迷惑をかけることを書けばいいだけ。

 なのに、どうしてだろうか。『離婚』の二文字を書こうとするたび、筆が止まってしまう。


 結局、何枚かの便せんを無駄にしたところで、私はペンを置き、椅子の背にもたれて天井を仰いだ。

 

「…………手紙、読もうかな」


 何が書いてあるのかは大体、想像がつく。私への謝罪と、今後についての事だろう。

 ほんと、自分勝手な人だ。自分から一ヶ月の猶予が欲しいと言っておいて、私の結論を待たずに離婚を突きつけるなんて。

 私は怒りが沸けば、手紙も書ける気がして、そっと封を切った。


 そして、目を見開いた。



 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



 22歳の私へ。


 ご機嫌よう、エチカ・ド・モンフォール。その名前には、もう慣れたかしら?私はまだ全然よ。


 この手紙を書いたのは、未来のあなたにどうしても伝えておきたいことがあるからなの。

 本当はね、ルネのこと、先輩の事情、二人でどんな生活を送っていたか……そういうことを全部書こうと思っていたの。

 先輩がどれだけあなたを好きだったかも、細かく書きたかった。


 でも、きっとそのあたりはもう先輩から聞いているでしょう?

 それに、誰かに「先輩はあなたを愛しているよ」と言われても、今のあなたは信じられないんじゃないかな。

 だって好きだからこそ、信じるのが怖くなる瞬間ってあるもの。


 だから、別のことを書くね。


 ねえ、エチカ。ちゃんと先輩と話してる?

 私ね、二人が拗れてしまった原因って、結局そこだと思うの。

 あなたはきっと、結婚してからようやく気づいたんじゃない?

 学校で見ていた先輩と、公爵家の人間として振る舞う先輩が全然違うってことに。

 そして、自分はあの人にふさわしくないんじゃないかという不安に襲われたんじゃないかな。

 だからいつか捨てられるんじゃないかって怯えて、もっとふさわしい妻にならなきゃって無理をして、

 弱いところを見せられなくなって、気づいたら作り笑顔ばかりになっていた……。


 でもね、エチカ。

 本音を隠しても、何も良いことなんてないよ。

 それがすれ違いの始まりなんだよ。


 もしあなたが本心から離婚を望んでいるなら、それでいい。

 でも、少しでも迷っているなら、一度、先輩の前で全部さらけ出してみてほしい。

 うまく言えなくてもいい。涙が出ても、言葉にならなくてもいい。

 チグハグな心をさらけ出して、そのままぶつけてみて?

 

 その後で、やっぱり一緒にいられないと思うなら、そのときは実家に帰ればいい。

 でも、逃げる前に一度だけでいいから、ちゃんと向き合ってほしいの。


 学生の頃みたいに、言いたいことを言ってしまおうよ。

 あなたは昔から、怖くても一歩踏み出せる人だったでしょう?

 その勇気、まだどこかに残っているはずだよ。

 大丈夫だから。

 先輩はあなたの声に必ず耳を傾けてくれるよ。

 真剣に、ちゃんと聞いてくれる。


 だから一歩踏み出して!

 当たって砕けろの精神を思い出せ!




 17歳の私、エチカ・ロアンより。



 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



 それは、私が私に書いた手紙だった。

 私は読み終えた手紙をそっと封筒に戻した。


「何よ……、わかったようなことを言って……」


 胸の奥がざわついて、落ち着かない。

 17歳の私の言葉は、まるで今の私の心を見透かしているみたいだった。

 触れられたくない場所を、正確に突かれたような感覚。

 

「……エリック様も、どうしてこのタイミングでこれを私に渡してきたんだろう?」


 ふと、そんな疑問が浮かんだ。

 エリック様は私にこの手紙を読ませて何がしたいんだろう。

 というか、どうして私宛の手紙をエリック様が持っていたのだろう。

 もしかして、渡すべきときに渡さず、ずっと隠し持っていた――?

 そんな考えが胸の奥でじわりと広がり、嫌な熱を帯びていく。


 その時ふと、窓の外から聞き慣れた声がした。


 私は反射的に顔を上げ、窓辺へ歩み寄る。

 庭を見下ろすと、そこには庭師と談笑するエリック様の姿があった。

 柔らかく笑って、穏やかに言葉を交わしている。


 そこで……プツン、と何かが切れた。


 私はこんなにも悩んで、泣いて、苦しんでいるのに。

 どうして彼は、あんなふうに笑っていられるのか。

 どうして、私の気持ちなんて知らない顔でいられるのか。


 胸の奥に溜まっていたものが、一気に噴き上がる。

 怒りとも悲しみともつかない感情が、喉元までせり上がってきて、気づけば私は窓を開け放っていた。

 吹き込む風が、熱くなった頬を撫でる。

 

 私は風魔法を纏い、窓枠から身を躍らせた。

 ふわりと体が浮き、庭園へと降りていく。

 驚いた庭師が声を上げたが、耳には入らない。


「エ、エチカ!?」


 目の前に舞い降りた私を見て、エリック様は大きく目を見開いた。

 そんな彼に、私は静かに息を吸い込み、そして吐き出した。


「……()()のばか!!」


 勢いよく叩きつけたその一言は酷く子供じみていて恥ずかしくなった。

 だが同時に、胸の奥に渦巻いていた感情がスッと消えて心が軽くなった。

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