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この溺愛にはウラがある  作者: 七瀬菜々


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35:日曜市(3) sideエリック

 エチカが手紙に何を書いたのかは知らない。

 俺に宛てたものではないし、読むつもりもなかった。

 けれど、内容は想像がついた。

 彼女のことだ。

 ()()が自分に辛く当たっていたのは精神干渉魔法のせいだとか、本当は()()は自分を愛していたのだとか。

 そんな、俺を庇うような内容を書いたのだろう。

 そして最後には、いかに()()のことが好きであるかを書き連ね、未来の自分に離婚を思いとどまるよう説得しているに違いない。

 なぜわかるのかって?

 わかるに決まっている。

 だってこの数ヶ月間、俺の隣にいたエチカは17歳の彼女だ。俺のことが好きで仕方なかった頃の、あのままの彼女だ。

 わからないはずがない。あの頃の彼女を、一番よく知っているのは俺なのだから。


 だけど、手紙を読むのは22歳のエチカだ。俺に傷つけられ、心を閉ざした彼女だ。


 いくら過去の説得されようと、心に刻まれた傷が消えるわけじゃない。

 むしろ、ルネもいなくなった今となっては、過去の自分にさえ背中を押されることで、味方が誰もいないと感じてしまうかもしれない。

 だから俺は、エチカから預かった手紙を引き出しにしまった。

 別に諦めたわけじゃない。

 ただ、誰の手も借りずに、今度こそ自分の力で彼女と向き合いたかった。

 そうして、また最初からやり直せると、信じていた。


 現実はそう甘くはないというのに……。


 魔法を解除して三日後。目を覚ましたエチカは予想通り、ここ数ヶ月の記憶を失っていた。

 彼女の記憶は、新年会の夜にテラスから落ちたところで途切れていた。

 当然、俺を見る目も以前と同じだった。あの、触れれば壊れてしまいそうなほどに怯えた目だ。

 今のエチカは俺のことなんてもう、好きでもなんでもない。むしろ、俺に抱く感情としては、嫌悪と恐怖の方が近いだろう。

 俺の手を振り払い、呼吸を乱し、小刻みに震える彼女を見た瞬間、自分の愚かさと傲慢さを思い知らされた。

 

 どうしてやり直せると思ったのか。

 あれほど傷つけておいて、どうして許されるなどと思えたのか。

 自然と、自分に対する嘲笑が漏れた。


 どうやら俺は勘違いをしていたらしい。

 失ったと思っていたあの笑顔を見てしまったから。

 あの頃と同じ笑顔で同じ声で俺の事を呼んでくれる彼女を見てしまったから。

 だから夢を見てしまったんだ。


 まだ、やり直せると。

 まだ、間に合うと。

 まだ、心の奥底では俺を思ってくれていると。


 そんなはずはないのに。




 一ヶ月の猶予を設けたのは、最後の悪あがきだった。

 戸惑うエチカの隣に居座り、勝手に愛を語り、時には物で釣ろうとさえした。

 意外にも、エチカは少しずつ心を開いてくれた。少なくとも俺にはそう見えた。

 だから、思い切ってデートに誘った。


 日曜市を歩く彼女は、本当に楽しそうだった。

 目を輝かせ、生き生きとしていた。

 それは、俺たちの関係が険悪になるよりもずっと前――


 ()()()()()()()()()()()()()()()の、あの頃の彼女そのものだった。


 知り合いと笑い合う横顔を見た瞬間、俺はそのことを悟った。

 そして同時に思った。

 エチカがいるべき場所は、俺の隣ではないのだと。

 そもそも、最初からすべてが間違いだったのだと。


 結婚なんて、すべきじゃなかった。

 そうすれば、エチカはずっと笑っていられたのに。

 好きになんて、なるべきじゃなかった。

 そうすれば、青春の一頁として、君との記憶を綺麗なまま思い出にできたのに。

 

 


 *




 夜空を見上げ、穏やかに微笑むエチカの横顔を見て、自然と笑みがこぼれた。

 

 ――ずっと、こうして笑っていてほしい。


 だから


「エチカ……離婚しようか」


 自分でも驚くほど静かな声が出た。

 エチカは目を瞬かせ、ゆっくりとこちらを向く。


「……え?」

「まだ一ヶ月は経っていないけど、もう十分だよ。俺のわがままに付き合わせて、ごめんな」


 エチカは困惑したように眉を寄せ、言葉を探すように口を開いた。


「えっと……ど、どうして……?」

「どうしてって……それは、君が一番よくわかっているんじゃないのか?」


 俺はそう言って、確かめるように慎重に、ゆっくりと彼女の頬へ手を伸ばした。

 けれど、指先が触れるより早く、エチカは小さく肩を震わせ、顔を背ける。

 自分を守るように背中を丸めるその姿が胸を鋭く抉った。


 これは俺の罪だ。


 怯えさせているのは、他でもない俺だ。

 俺は伸ばした手をそっと引き、拳を握りしめた。


「エチカ……俺と結婚生活を続けるなら、子どもを産むことを求められる。兄さんに子がいないなら、なおさらだ」


 苦手な社交は減らせる。

 親族会も、嫌がらせも、対処のしようはある。

 だが――子どもだけは、避けられない。


「君は……俺に触れられることに、耐えられるか?」


 問いかけると、エチカは俯き、唇を噛んだ。

 その沈黙が彼女の答えだった。


 夜風が二人の間を通り抜ける。

 その温度差が、触れられない距離を静かに示していた。


「こんなこと、俺が言えた立場じゃないのはわかってる。でも……」

 

 言葉を選びながら、ゆっくりと息を吐く。


「俺は、君には……いつも笑っていてほしいんだ。エチカ」


 その願いは、嘘じゃない。

 どれほど身勝手でも、どれほど遅すぎても。


 俺はもう、君の笑顔を奪う存在にはなりたくない。

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