34:日曜市(2)
馬車に揺られること20分。モンフォール領で最も栄えている場所、中央広場に着いた。
馬車を降りた途端、春のやわらかな空気が肌に触れた。
石畳の上では、屋台の布が風に押されてゆるく揺れている。
「わぁ!良い匂い!」
焼き菓子の甘い匂い、香辛料の刺激的な香り、焼き立てのパンの香ばしさ。それらが風に乗って流れてきて、私の鼻腔をくすぐる。
湯気が立ちのぼる屋台と、そこから聞こえる鉄板の上で油が弾ける音。人々の笑い声に店主の呼び込み。そして子どもたちのはしゃぐ声。そのすべてが重なり合い、広場全体がゆっくりと目を覚ましていくようで、気づくと私は今までの気まずい空気なんてすっかり忘れていた。
「何から食べようかなぁ!」
「……楽しそうだな、エチカ」
「はい!久しぶりなので!」
「そっか。よかった」
私がきょろきょろと視線を走らせるのを見て、エリック様は小さく笑った。
そして、ためらうように手を伸ばし、そっと指を絡めてくる。
突然の温もりに驚いて、私は思わず彼を見上げた。
「えっと……」
「嫌じゃなければ……このまま手をつなぎたいんだが……、いいか?」
「は、はい……」
「ありがとう。じゃあ、どこから見る?君の好きなところでいい」
「えっと……。あっちの串焼き……とか……?」
「あとは?」
「あ、あとは……あの雲みたいなお菓子も。あれは初めて見たかも……」
「確かに、珍しいお菓子だな」
「それから、あの揚げパンも気になるかも……!」
私は迷いながらも、次々と食べ物を指さしていく。
串焼きの煙がふわりと流れ、甘い香りが鼻先をかすめた。
エリック様は、私の指先の動きを追うように視線を移し、ひとつひとつ確かめるように屋台を眺めた。
そしてほんの一拍、静かな間が落ちた。
春の風が二人の間を抜け、ざわめきが一瞬だけ遠のいたように感じられた。
その一瞬のあとで、エリック様は堪えきれないというように、口元を緩めてプッと吹き出した。
「エチカは相変わらず食いしん坊だな」
「なっ……!?」
「朝食を抜いてきて正解だったかな?」
からかうような口調で言うエリック様。まるで私が食い意地が張っているみたいな言い方だ。
まあ、間違いではないけれど。
「食い意地が張っててすみませんねっ!」
「別に悪いなんて言ってないぞ。良く食べるのは良いことだ。だけど、腹を壊さない程度にしろよ?」
「わかってます!」
つい語気が強くなってしまい、私はハッとして視線をそらした。
顔を向けた先には串焼きの屋台があり、立ちのぼる煙がふわりと流れてきて、鼻先をくすぐる。
その香りに引き寄せられるように、つま先が自然とそちらへ向いた。
エリック様は、そんな私の様子を見て、喉の奥で小さく笑った。
からかうというより、むしろ肩の力が抜けたような、どこかほっとした気配のある笑みだった。
「じゃあ……まずは串焼きにするか。あれなら歩きながらでも食べられるし」
そう言って、エリック様は指を絡めたまま、軽く手を引いた。
歩き出した彼の横顔はどこか楽しげで、その表情につられるように私の口元もゆるんだ。
鉄板の上で油が弾ける音、店主の威勢のいい声、子どもたちの笑い声。
それらに混じって、手のひらに伝わるエリック様の温もりと、横から向けられる穏やかな眼差し。
ああ、あの頃に戻っていく。
楽しい。嬉しい。幸せ。
屋台を巡りながら、食べて、笑って、また食べて。
ときどき可愛い雑貨を手に取ったりして、過ごす時間はまるで恋人のようで、私は忘れかけていた。
――裏切り者!嘘つき!
近くのベンチに腰掛け、チョコレートソースのかかったドーナツにかぶりついた瞬間、急にあの夜の出来事が脳裏をよぎる。
私の隣にいるのは誰?
そんな声が聞こえた気がして、私は隣を見上げた。
そこにいたのは、私の言葉に耳を傾けることなく、私を組み敷いて、罵倒し、怒りに震える手で無理矢理私に触れた人。
そう思ってしまった瞬間、口の中に広がる甘さとは裏腹に、言い表せないほどの不安感が雪崩のように押し寄せてきた。
本当にこれでいいのだろうか。
この人と、こんなふうに楽しんでいて良いのだろうか。
だってどれだけ優しくされても、エリック様にされたことも、あのときの痛みも、まだ消えていない。
「エチカ?どうした?」
ドーナツを持ったまま険しい顔でエリック様を見つめる私に、エリック様は首を傾げた。
そしてふっと愛おしそうに目元を緩めた。
「チョコレートソース、ついているぞ」
「……え?」
「ほら、ここ」
そう言って、エリック様は私に手を伸ばそうとした。
「……い、いや!!」
その手を跳ね除ける。自分でもわかるほど、視線が揺れた。
エリック様はそんな私の態度に、困惑した様子で手を下ろした。
「ごめん、びっくりさせてしまったかな……?」
「あ、いや、ちが……これは違うんです。違う……私……」
動揺して、目の前がぐるぐると回る。
——違う?何が違う?触れられるのを怖いと思ったんだろう?
——違う!怖いなんて思っていない。だってエスコートされた時は嬉しかった。手を引いて歩いてくれた時は楽しかった。ドキドキしたもの!
相反する二つの感情が頭の中で交差する。
私は一体、何をしているんだろう。何がしたいのだろう。
エリック様は私に真剣に向き合ってくれている。過去の行いを悔いて、私に対し誠実に接してくれている。
それなのに私は……
まとまらない思考。加速する罪悪感。私は勢いよく立ち上がると、エリック様に背を向けたまま言う。
「の、飲み物……を、買ってきます!!」
「え、ちょっと!エチカ!?」
「すぐに戻りますから!」
言い訳のような声を残し、私は広場の人混みへ駆け出した。
胸の鼓動がうるさい。足が勝手に前へ進む。今はただ、この場から離れたかった。
けれど……
「あれ?エチカ?」
無我夢中で大通りを走っていると、すれ違いざまにふと名前を呼ばれ、足を止めた。
振り返ると、そこに立っていたのはとても懐かしい顔だった。
「え……?ライラ?」
ライラは実家が近所だった幼なじみだ。
彼女は赤茶色の髪を揺らしながら、昔と変わらない笑顔を向けてきた。
「そうだよー!久しぶり!」
「ひ、久しぶり」
思わずぎこちない声が出た。
だが、ライラは気にする様子もなく、ぱっと目を輝かせる。
「最後に会ったのは、エチカから結婚報告を受けたときだから……もう三年か四年ぶりくらいかな?」
「そう、だね」
「元気してた!?」
「えっと……元気だよ」
身体は、だけど。
嘘ではないけれど、本当でもない返事をして、私はは誤魔化すように口元だけで笑った。
「ずっと心配してたんだよー?全然音沙汰ないし……。おじさんとおばさんも、口には出さないけど心配してると思うよ?たまには連絡してあげなよ?」
「うん。そうだね。ごめんね、心配かけて」
「まあ、でも。元気そうで良かったよ」
ライラはほっとしたように胸を撫で下ろす。
その無邪気さが、今の私には少しだけ眩しい。
「……ところで、ライラはどうしてこんなところに?」
「新しい仕入れ先を開拓しようと思って。ちょっと遠出してみたの」
「そうなんだ」
「ま、全然相手にされなかったけどね!」
女一人で交渉に出向けば、嫌味を言われることも多いだろうに、それでも明るく振る舞えるなんて本当に強い。
昔から行動力のある子だったが、家業を手伝うようになってから、さらにたくましくなったようだ。
それに比べて私は……。
「エチカは?」
「……へ?」
「こんなところで何してるの?」
「あ……ちょっと、気晴らしに……」
「気晴らし?」
「こういう空気が吸いたくなって。ほら、私は庶民だし」
自分で言って、胸の奥が少し痛んだ。
視線を逸らすと、ライラが心配そうに首をかしげる。
「エチカ?どうした?何かあった?」
「う、ううん?何でもないよ!」
慌てて笑ってみせると、ライラは少しだけ眉を寄せたが、それ以上は踏み込んでこなかった。
「そう?なら良いけど……。何か困ったことがあるなら力になるからね!どこに嫁いだって、エチカは私の大事な幼なじみなんだから」
「ライラ……。うん、ありがとう」
「じゃ、またね」
「うん、また」
軽やかな足取りで去っていくライラの背中を、私はしばらく見送った。
人混みに紛れて姿が見えなくなると、ふっと息が漏れる。
そのとき――
「……エチカ」
背後から静かな声がした。
振り返ると、エリック様が立っていた。
私を追いかけてきたのだろう。少しだけ息が荒い。
「あ……えっと……」
視線が合った瞬間、胸の奥がざわついた。言葉がうまく出てこない。
エリック様はそんな私を見て、少し寂しそうに微笑んだ。
「……果実水なら、さっきのドーナツ屋の隣で売っていたよ?」
「は、はい」
「買いに……行く?」
「あ……あの……」
「それとも……やっぱり、もう帰る?」
帰る、という言葉に、少しだけ心が軽くなる。
私は小さく頷いた。
「……わかった。馬車まで行こう」
エリック様はそれ以上何も言わず、私の横に並んだ。
けれど、今度は手は伸びてこない。
ほんのわずかな距離が、さっきよりも遠く感じられた。
* * *
その日の夜、私はエリック様に誘われて屋根の上に登った。
毛布を敷き、その上に寝転がって、星が瞬く夜空を見上げる。
ゆったりと流れる時間の中で、ざわついていた心が少しずつ落ち着きを取り戻していった。
エリック様はそんな私を横目でそっとうかがい、そして小さく微笑んだ。
その笑みは優しいのに、どこかためらいを含んでいる用に見えた。
「エリック様……?どうかなさいましたか?」
私がそう問いかけると、彼は遠慮がちに口を開いた。
「エチカ……、離婚しようか」
星の光だけが静かに降り注ぐ中、その言葉は夜気に溶けるように落ちていった。




