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この溺愛にはウラがある  作者: 七瀬菜々


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34/35

34:日曜市(2)

 馬車に揺られること20分。モンフォール領で最も栄えている場所、中央広場に着いた。

 馬車を降りた途端、春のやわらかな空気が肌に触れた。

 石畳の上では、屋台の布が風に押されてゆるく揺れている。

 

「わぁ!良い匂い!」


 焼き菓子の甘い匂い、香辛料の刺激的な香り、焼き立てのパンの香ばしさ。それらが風に乗って流れてきて、私の鼻腔をくすぐる。

 湯気が立ちのぼる屋台と、そこから聞こえる鉄板の上で油が弾ける音。人々の笑い声に店主の呼び込み。そして子どもたちのはしゃぐ声。そのすべてが重なり合い、広場全体がゆっくりと目を覚ましていくようで、気づくと私は今までの気まずい空気なんてすっかり忘れていた。


「何から食べようかなぁ!」

「……楽しそうだな、エチカ」

「はい!久しぶりなので!」

「そっか。よかった」


 私がきょろきょろと視線を走らせるのを見て、エリック様は小さく笑った。

 そして、ためらうように手を伸ばし、そっと指を絡めてくる。

 突然の温もりに驚いて、私は思わず彼を見上げた。


「えっと……」

「嫌じゃなければ……このまま手をつなぎたいんだが……、いいか?」

「は、はい……」

「ありがとう。じゃあ、どこから見る?君の好きなところでいい」

「えっと……。あっちの串焼き……とか……?」

「あとは?」

「あ、あとは……あの雲みたいなお菓子も。あれは初めて見たかも……」

「確かに、珍しいお菓子だな」

「それから、あの揚げパンも気になるかも……!」


 私は迷いながらも、次々と食べ物を指さしていく。

 串焼きの煙がふわりと流れ、甘い香りが鼻先をかすめた。

 エリック様は、私の指先の動きを追うように視線を移し、ひとつひとつ確かめるように屋台を眺めた。

 そしてほんの一拍、静かな間が落ちた。

 春の風が二人の間を抜け、ざわめきが一瞬だけ遠のいたように感じられた。

 その一瞬のあとで、エリック様は堪えきれないというように、口元を緩めてプッと吹き出した。


「エチカは相変わらず食いしん坊だな」

「なっ……!?」

「朝食を抜いてきて正解だったかな?」


 からかうような口調で言うエリック様。まるで私が食い意地が張っているみたいな言い方だ。

 まあ、間違いではないけれど。


「食い意地が張っててすみませんねっ!」

「別に悪いなんて言ってないぞ。良く食べるのは良いことだ。だけど、腹を壊さない程度にしろよ?」

「わかってます!」


 つい語気が強くなってしまい、私はハッとして視線をそらした。

 顔を向けた先には串焼きの屋台があり、立ちのぼる煙がふわりと流れてきて、鼻先をくすぐる。

 その香りに引き寄せられるように、つま先が自然とそちらへ向いた。

 エリック様は、そんな私の様子を見て、喉の奥で小さく笑った。

 からかうというより、むしろ肩の力が抜けたような、どこかほっとした気配のある笑みだった。


「じゃあ……まずは串焼きにするか。あれなら歩きながらでも食べられるし」


 そう言って、エリック様は指を絡めたまま、軽く手を引いた。

 歩き出した彼の横顔はどこか楽しげで、その表情につられるように私の口元もゆるんだ。


 鉄板の上で油が弾ける音、店主の威勢のいい声、子どもたちの笑い声。

 それらに混じって、手のひらに伝わるエリック様の温もりと、横から向けられる穏やかな眼差し。


 ああ、あの頃に戻っていく。

 楽しい。嬉しい。幸せ。

 

 屋台を巡りながら、食べて、笑って、また食べて。

 ときどき可愛い雑貨を手に取ったりして、過ごす時間はまるで恋人のようで、私は忘れかけていた。




 ――裏切り者!嘘つき!




 近くのベンチに腰掛け、チョコレートソースのかかったドーナツにかぶりついた瞬間、急にあの夜の出来事が脳裏をよぎる。


 私の隣にいるのは誰?


 そんな声が聞こえた気がして、私は隣を見上げた。

 そこにいたのは、私の言葉に耳を傾けることなく、私を組み敷いて、罵倒し、怒りに震える手で無理矢理私に触れた人。

 そう思ってしまった瞬間、口の中に広がる甘さとは裏腹に、言い表せないほどの不安感が雪崩のように押し寄せてきた。


 本当にこれでいいのだろうか。

 この人と、こんなふうに楽しんでいて良いのだろうか。

 だってどれだけ優しくされても、エリック様にされたことも、あのときの痛みも、まだ消えていない。

 

「エチカ?どうした?」


 ドーナツを持ったまま険しい顔でエリック様を見つめる私に、エリック様は首を傾げた。

 そしてふっと愛おしそうに目元を緩めた。


「チョコレートソース、ついているぞ」

「……え?」

「ほら、ここ」


 そう言って、エリック様は私に手を伸ばそうとした。

 

「……い、いや!!」


 その手を跳ね除ける。自分でもわかるほど、視線が揺れた。

 エリック様はそんな私の態度に、困惑した様子で手を下ろした。


「ごめん、びっくりさせてしまったかな……?」

「あ、いや、ちが……これは違うんです。違う……私……」


 動揺して、目の前がぐるぐると回る。


 ——違う?何が違う?触れられるのを怖いと思ったんだろう?

 ——違う!怖いなんて思っていない。だってエスコートされた時は嬉しかった。手を引いて歩いてくれた時は楽しかった。ドキドキしたもの!


 相反する二つの感情が頭の中で交差する。

 私は一体、何をしているんだろう。何がしたいのだろう。

 エリック様は私に真剣に向き合ってくれている。過去の行いを悔いて、私に対し誠実に接してくれている。


 それなのに私は……

 

 まとまらない思考。加速する罪悪感。私は勢いよく立ち上がると、エリック様に背を向けたまま言う。

 

「の、飲み物……を、買ってきます!!」

「え、ちょっと!エチカ!?」

「すぐに戻りますから!」


 言い訳のような声を残し、私は広場の人混みへ駆け出した。

 胸の鼓動がうるさい。足が勝手に前へ進む。今はただ、この場から離れたかった。

 

 けれど……


「あれ?エチカ?」


 無我夢中で大通りを走っていると、すれ違いざまにふと名前を呼ばれ、足を止めた。

 振り返ると、そこに立っていたのはとても懐かしい顔だった。


「え……?ライラ?」


 ライラは実家が近所だった幼なじみだ。

 彼女は赤茶色の髪を揺らしながら、昔と変わらない笑顔を向けてきた。


「そうだよー!久しぶり!」

「ひ、久しぶり」


 思わずぎこちない声が出た。

 だが、ライラは気にする様子もなく、ぱっと目を輝かせる。


「最後に会ったのは、エチカから結婚報告を受けたときだから……もう三年か四年ぶりくらいかな?」

「そう、だね」

「元気してた!?」

「えっと……元気だよ」


 身体は、だけど。

 嘘ではないけれど、本当でもない返事をして、私はは誤魔化すように口元だけで笑った。


「ずっと心配してたんだよー?全然音沙汰ないし……。おじさんとおばさんも、口には出さないけど心配してると思うよ?たまには連絡してあげなよ?」

「うん。そうだね。ごめんね、心配かけて」

「まあ、でも。元気そうで良かったよ」


 ライラはほっとしたように胸を撫で下ろす。

 その無邪気さが、今の私には少しだけ眩しい。


「……ところで、ライラはどうしてこんなところに?」

「新しい仕入れ先を開拓しようと思って。ちょっと遠出してみたの」

「そうなんだ」

「ま、全然相手にされなかったけどね!」


 女一人で交渉に出向けば、嫌味を言われることも多いだろうに、それでも明るく振る舞えるなんて本当に強い。

 昔から行動力のある子だったが、家業を手伝うようになってから、さらにたくましくなったようだ。

 それに比べて私は……。


「エチカは?」

「……へ?」

「こんなところで何してるの?」

「あ……ちょっと、気晴らしに……」

「気晴らし?」

「こういう空気が吸いたくなって。ほら、私は庶民だし」


 自分で言って、胸の奥が少し痛んだ。

 視線を逸らすと、ライラが心配そうに首をかしげる。


「エチカ?どうした?何かあった?」

「う、ううん?何でもないよ!」


 慌てて笑ってみせると、ライラは少しだけ眉を寄せたが、それ以上は踏み込んでこなかった。


「そう?なら良いけど……。何か困ったことがあるなら力になるからね!どこに嫁いだって、エチカは私の大事な幼なじみなんだから」

「ライラ……。うん、ありがとう」

「じゃ、またね」

「うん、また」


 軽やかな足取りで去っていくライラの背中を、私はしばらく見送った。

 人混みに紛れて姿が見えなくなると、ふっと息が漏れる。


 そのとき――


「……エチカ」


 背後から静かな声がした。

 振り返ると、エリック様が立っていた。

 私を追いかけてきたのだろう。少しだけ息が荒い。

 

「あ……えっと……」


 視線が合った瞬間、胸の奥がざわついた。言葉がうまく出てこない。

 エリック様はそんな私を見て、少し寂しそうに微笑んだ。


「……果実水なら、さっきのドーナツ屋の隣で売っていたよ?」

「は、はい」

「買いに……行く?」

「あ……あの……」

「それとも……やっぱり、もう帰る?」


 帰る、という言葉に、少しだけ心が軽くなる。

 私は小さく頷いた。


「……わかった。馬車まで行こう」


 エリック様はそれ以上何も言わず、私の横に並んだ。

 けれど、今度は手は伸びてこない。

 ほんのわずかな距離が、さっきよりも遠く感じられた。



 *  *  *


 その日の夜、私はエリック様に誘われて屋根の上に登った。

 毛布を敷き、その上に寝転がって、星が瞬く夜空を見上げる。

 ゆったりと流れる時間の中で、ざわついていた心が少しずつ落ち着きを取り戻していった。


 エリック様はそんな私を横目でそっとうかがい、そして小さく微笑んだ。

 その笑みは優しいのに、どこかためらいを含んでいる用に見えた。


「エリック様……?どうかなさいましたか?」

  

 私がそう問いかけると、彼は遠慮がちに口を開いた。


「エチカ……、離婚しようか」


 星の光だけが静かに降り注ぐ中、その言葉は夜気に溶けるように落ちていった。

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