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この溺愛にはウラがある  作者: 七瀬菜々


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33/35

33:日曜市(1)

一ヶ月の猶予期間を設定したあの日から、私の日常は思っていたよりも穏やかに過ぎていった。

 朝は毎日同じ時間に目覚め、レイチェルの手を借りながら身じたくを済ませる。

 昼は新しい使用人たちと、お屋敷の管理について相談したり、庭を散歩したり、読書をしたりして過ごしている。

 社交に関してだけは、この一ヶ月間だけ免除されていて、それは『もし離婚するのなら、社交なんかしていても意味が無いから』というエリック様なりの配慮らしい。

 夜は仕事から帰ってきたエリック様と一緒に夕食をとり、その後はたまに夜の庭園を散歩したり、屋根の上で星を眺めたりしている。

 ゆったりと流れる時間。何も起こらない平穏な日々。

 それはこの家に嫁いできてからずっと、欲しくてたまらなかった日常だった。


 けれど同時に、胸の奥がふと空っぽになる瞬間がある。


 エリック様が変わったせいだろうか。

 彼は以前よりも積極的に私と過ごす時間をつくり、ちゃんと目を見て話してくれるようになった。

 折に触れて小さな贈り物をくれることも増えた。

 真正面から好きだと言ってくれるし、歯の浮くような甘い言葉も惜しまない。

 その視線には、私を大切に思っている気持ちがはっきりと宿っている。


 なのに、彼は決して私に触れてはこない。

 

 まるで距離を測るように、慎重に、丁寧にわたしにせっしてくる。

 きっと、私を慮ってのことなのだろう。

 それは理解している。けれど、その優しさがどうにも落ち着かない。

 穏やかなはずなのに、どこか自分だけが置き去りになっているような気がする。

 私が求めていたものは、本当にこういう生活だったのだろうか。

 そんな問いを胸のどこかに抱えたまま、日々は過ぎていった。


 そうして迎えた今日、エリック様は急に『日曜市へ行かないか』と誘って来た。

 日曜市とは、毎月第三日曜日に中央広場で開かれる朝市のことだ。商店街の店々が色とりどりの屋台を並べ、市民楽団の演奏や踊りが広場を満たす、領民による小さなお祭り。

 私は特に用事があったわけでもないので、彼の誘いを承諾した。

 

(そういえば、結婚したばかりの頃にも、一度だけお願いしたことがあったな……)


 貴族の暮らしに慣れようと必死だったあの頃。一度だけ『ブティックや宝石店を巡るよりも、街を歩きたい』とワガママを言ったことがあった。あの時もエリック様は私を日曜市に誘ってくれた。

 

「あの時は楽しかったな……」


 思わずこぼれた独り言に、身支度を手伝っていたレイチェルはコテンと首をかしげた。


「もしかして、以前にも日曜市に行かれたことが?」

「ええ、一度だけ」

「そうなのですね。私も日曜市は大好きです!特別感があって!」

「ふふっ。そうね。日常の中にある非日常って感じ」

「そうなのですよ!幼い頃は日曜市のためにお手伝いを頑張ってお小遣いを貯めていました」

「私も記憶があるわ。……懐かしい」

「奥様もお小遣いを貯めて遊びに行っていたのですか?」

「ええ、もちろん。父は厳しい人だったから、タダでお小遣いはくれなかったわ」


 懐かしい。私は父の顔を思い浮かべた。

 結婚してからは一度も会えていないが、父は、母は、弟は元気にしているだろうか。

 

「できました。こんな感じでどうでしょう?」

 

 家族のことを思い出してぼんやりしている間に、レイチェルは手際よく身支度を整えてくれていた。

 町娘風の質素なチェックのワンピースに着替えた私を見て、彼女は満足げに頷く。


「私はとってもよくお似合いだと思うのですが……」

「……私、似合ってる?」

「ええ!とっても可愛らしいです!」

「……そう。なら、よかったわ。ありがとう」


 似合っている、か。

 鏡に映る自分を見つめながら、私は小さく息を吐いた。

 レイチェルは純粋に褒めてくれている。それは分かっているのに、どこか素直に受け取れない。

 日頃から貴族たちの嫌味を聞き続けてきたせいだろうか。どうしても、『庶民の格好が似合う』という皮肉に変換してしまう自分がいる。


(言葉をそのまま受け止められなくなってるんだわ、私……)


 嫌味な人たちと長く関わっていたせいで、自分まで歪んでしまったみたい。

 本当は、誰かの褒め言葉くらい、素直に受け取れる人間でいたいのに。

 そんなことを考えていると、自然とため息がこぼれた。


「……奥様?どうなさいましたか?」


 鏡をじっと見つめていた私に、レイチェルが心配そうに眉を下げて覗き込む。

 私は慌てて首を振り、笑顔を作った。


「ちょっとぼーっとしてただけ。眠いのかも」

「寝不足ですか?」

「少しね。最近、寝つきが悪くて」

「まあ!それはいけません!今夜は就寝前にハーブティーをご用意しますね!」

「そうね、ありがとう」

「他にも何かあれば、遠慮なく仰ってくださいね?」


 レイチェルは私の手をそっと取って、優しく微笑んだ。

 その手は温かくて、安心するはずなのに……。

 どうしても、頭にはルネの顔が浮かんでしまう。


「大丈夫よ。ありがとう」


 私はその気配を悟られないように、彼女の温かい手をそっと離した。そして、もう一度鏡の中の自分を見つめた。

 心は相変わらずモヤモヤしている。ずっと落ち着かない。けれど、今日はそれを抱えたままでもいい。

 外に出れば、少しは気が紛れるかもしれない。


 そう思ったところで、扉の方から低い声がした。 


「準備はできたか?」

 振り返ると、つばの短い布帽子を深くかぶり、生成りのシャツに茶色い粗布のベストを重ねた、まるで新聞配達の青年のような格好のエリック様が立っていた。

 

「エリック様……」

「随分と懐かしい髪型をしているな」

「昔はよくしていましたものね、三つ編み」


 私はレイチェルが結ってくれた三つ編みを指先でつまむ。

 エリック様は、どこか遠い日を思い出すように目を細めた。

 

「よく似合ってるぞ」

「ありがとうございます。エリック様は……、なんだか似合いませんね?」


 エリック様の姿を見て、私は苦笑した。

 一見すると平民の若者そのものだが、布地の質や縫い目の整い方がどこか上品で、隠しきれない育ちの良さが滲んでいる。


「なんだか、逆に目立ちそう」

「そうか?でも、それを言うなら君もだろう?」

「え?何かおかしいですか?」

「おかしくはないけど、ほら。可愛すぎるから。皆が振り返りそうだって」

「なっ……!」

「とても可愛いよ。素敵だ」

「……そ、そういうこと、言わないでくれません?」


 この人はいつもいつも、恥ずかしげもなく、さらりと歯の浮くようなことを言うのだから。

 私は頬の熱を誤魔化すように目を逸らした。

 エリック様はそんな私の反応を見て、困ったように笑った。


「褒め言葉のつもりだったんだけど、嫌だったか?」

「そういうわけでは……。ただ、その……恥ずかしいので」

「そっか、ごめん。次からは気をつける」


 素直に謝るエリック様の声が、少しだけ弱く感じた。

 そのかすかな揺れが、胸の奥に引っかかる。

 短い沈黙が落ちる。互いに言葉を探しているような静けさだった。

 エリック様は視線を伏せ、指先でそっと袖口をつまんだ。

 言葉を探しているのか、それとも迷っているのか。彼からそっと呼吸を整える気配がした。


「エスコート、してもいいだろうか?」

「……え?」

「だめ、かな?」


 不安を隠しきれない声音で、エリック様は首をかしげた。

 一ヶ月の猶予期間を設けてから今日まで、彼は頑なに触れようとしてこなかったのに、どうして?

 そう思った瞬間、差し出された手がかすかに震えているのが目に入った。

 その震えが、胸の奥に小さな波紋を落とす。

 理由は分からない。けれど、気づけば私はその手を取っていた。

 

「……よ、よろしくお願いします」


 そう呟いたものの、顔を上げることができない。

 だから今、彼がどんな表情をしているのか分からない。

 ただ、少し震えた声で、感慨深そうに「ありがとう」と落とされたその一言が、

 鼓膜と一緒に、私の心まで静かに揺らした。



 


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