32:1ヶ月の猶予(2)
部屋に戻り、ソファに腰を下ろすと、エリック様は深く息を吐き、ゆっくりと話し始めた。
私はテラスから落ちたあと、一時的に記憶を失っていたこと。
コレット様のいやがらせのこと。シルヴァン様との噂の事。
そして……ルネの策略――
どれも信じがたい話のはずなのに、不思議と抵抗なく受け入れてしまっていた。
記憶のない時期の私が経験したことだからだろうか。理解よりも先に、どこかで納得してしまう。
「すべて俺の責任だ。今までずっと……たくさん傷つけて……ごめん」
エリック様は、深々と頭を下げた。
その姿は、以前の彼からは想像できないほど弱々しく見えた。
私は、この謝罪をどう受け止めればいいのだろう。
言葉が出てこない。何を言えばいいのか、わからない。
重い沈黙が私たちを包み込む。
窓の外では春の風が木々を揺らし、柔らかな光が床に落ちている。
その穏やかさとは裏腹に、部屋の空気は張りつめていた。
エリック様はその沈黙に耐えきれなくなったように口を開いた。
「エチカは……今も、俺との離婚を望んでいるか?」
「私は……」
望んでいる。もう、これ以上傷つきたくない。
どんな事情があっても、きっと私の凍てついた心はもう元には戻らない。
これから先、エリック様といて幸せになれる未来は見えない。
そう答えようとした。
だけど、やっぱり言葉が上手く出てこない。
私は唇を真一文字に引き結び、うつむいた。
「今なら、俺の有責で離婚できる。……もし君が今すぐにでもこの家を出て行きたいというのなら、準備しようと思う」
「……い、今はちょっと混乱していて……。すみません。よく、わかりません」
「……そ、そうだよな。ごめん。こんな時に、勝手なことを言って」
エリック様は苦しげに目を伏せた。
その横顔には、後悔と迷いが滲んでいた。
静かな部屋の中で、時計の針の音だけがやけに大きく響く。
エリック様は膝の上で握りしめた拳を、何度もゆっくりと開いたり閉じたりしていた。
迷い、ためらい、そして覚悟――そのすべてが、その仕草に滲んでいた。
やがて彼は、何かを決めたように顔を上げた。
「……エチカ。ひとつだけ、お願いがある」
エリック様のまっすぐな声に、私は顔をあげる。
すると、彼は真剣な眼差しでこちらをじっと見つめていた。
その瞳には、必死に抑え込んだ感情が揺れていた。
「い、一度だけ、俺にチャンスをくれないだろうか……?」
「チャンス……?」
「一ヶ月……、社交シーズンが始まって、王都へ移るまでの一ヶ月の間に、もし、もう一度君に好きになってもらえたら……、そのときは、どうか離婚を思いとどまってほしい」
言葉を選ぶように、ゆっくりと吐き出されたその声は、かすかに震えていた。
必死に抑え込んだ感情が、言葉の端々に滲んでいる。
「……どうしてそんなことを言うんですか?」
「どうしてって、そんなの君のことが好きだからだよ」
「……え?」
「……好きだよ、エチカ。俺は君のことが好きだ。君を失うことが怖くて感情のコントロールができなくなるくらいに、君のことを愛している」
その告白は、強い言葉ではないのに、胸の奥深くに落ちていくようだった。
嘘をついているようには見えない。むしろ、今にも壊れそうなほど真剣だった。
ドクン、と心臓が跳ねた。
凍りついていたはずの心が、彼の言葉でいとも簡単に揺らぐ。
そんな自分が信じられなくて、どうしても納得できなくて、私は思わず視線を逸らした。
視界の端で、春の光が床に落ちている。
その穏やかさが、今の自分にはひどく残酷に思えた。
「わ、わかりました……。一ヶ月、ちゃんと考えてみます……」
自分の声が、少し震えているのがわかった。
エリック様は、胸に手を当てるようにしてほっと息を吐いた。
「ありがとう……!」
「べ、べつに……、考えてみるだけですから……!!」
「わかっているよ。でもありがとう」
泣きそうな顔でそう言うエリック様。その安堵の表情に胸が苦しくなる。
正直な気持ちを言うなら、もうこのまま何も考えずに離婚した方がいいと思っている。きっと、その方が傷つかない。
でも同時に、どんな決断をするにしても、逃げたままでは後悔するのではないか、そんな思いもあった。
だから私は小さく息を吸い、言葉を紡いだ。
「……まだ、しばらくは……よろしくお願いします」
「ああ、こちらこそ」
静かな返事が返ってくる。
その声と私を見つめる瞳には、私を想う気持ちがあふれているように感じて、なんだか気恥ずかしい。
私はまた顔を伏せた。




