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この溺愛にはウラがある  作者: 七瀬菜々


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32/33

32:1ヶ月の猶予(2)

 部屋に戻り、ソファに腰を下ろすと、エリック様は深く息を吐き、ゆっくりと話し始めた。


 私はテラスから落ちたあと、一時的に記憶を失っていたこと。

 コレット様のいやがらせのこと。シルヴァン様との噂の事。

 そして……ルネの策略――


 どれも信じがたい話のはずなのに、不思議と抵抗なく受け入れてしまっていた。

 記憶のない時期の私が経験したことだからだろうか。理解よりも先に、どこかで納得してしまう。


「すべて俺の責任だ。今までずっと……たくさん傷つけて……ごめん」


 エリック様は、深々と頭を下げた。

 その姿は、以前の彼からは想像できないほど弱々しく見えた。


 私は、この謝罪をどう受け止めればいいのだろう。

 言葉が出てこない。何を言えばいいのか、わからない。


 重い沈黙が私たちを包み込む。

 窓の外では春の風が木々を揺らし、柔らかな光が床に落ちている。

 その穏やかさとは裏腹に、部屋の空気は張りつめていた。

 

 エリック様はその沈黙に耐えきれなくなったように口を開いた。


「エチカは……今も、俺との離婚を望んでいるか?」

「私は……」


 望んでいる。もう、これ以上傷つきたくない。

 どんな事情があっても、きっと私の凍てついた心はもう元には戻らない。

 これから先、エリック様といて幸せになれる未来は見えない。

 そう答えようとした。

 だけど、やっぱり言葉が上手く出てこない。 

 私は唇を真一文字に引き結び、うつむいた。


「今なら、俺の有責で離婚できる。……もし君が今すぐにでもこの家を出て行きたいというのなら、準備しようと思う」

「……い、今はちょっと混乱していて……。すみません。よく、わかりません」

「……そ、そうだよな。ごめん。こんな時に、勝手なことを言って」


 エリック様は苦しげに目を伏せた。

 その横顔には、後悔と迷いが滲んでいた。


 静かな部屋の中で、時計の針の音だけがやけに大きく響く。

 エリック様は膝の上で握りしめた拳を、何度もゆっくりと開いたり閉じたりしていた。

 迷い、ためらい、そして覚悟――そのすべてが、その仕草に滲んでいた。

 やがて彼は、何かを決めたように顔を上げた。

 

「……エチカ。ひとつだけ、お願いがある」


 エリック様のまっすぐな声に、私は顔をあげる。

 すると、彼は真剣な眼差しでこちらをじっと見つめていた。

 その瞳には、必死に抑え込んだ感情が揺れていた。


「い、一度だけ、俺にチャンスをくれないだろうか……?」

「チャンス……?」

「一ヶ月……、社交シーズンが始まって、王都へ移るまでの一ヶ月の間に、もし、もう一度君に好きになってもらえたら……、そのときは、どうか離婚を思いとどまってほしい」  


 言葉を選ぶように、ゆっくりと吐き出されたその声は、かすかに震えていた。

 必死に抑え込んだ感情が、言葉の端々に滲んでいる。


「……どうしてそんなことを言うんですか?」

「どうしてって、そんなの君のことが好きだからだよ」

「……え?」

「……好きだよ、エチカ。俺は君のことが好きだ。君を失うことが怖くて感情のコントロールができなくなるくらいに、君のことを愛している」


 その告白は、強い言葉ではないのに、胸の奥深くに落ちていくようだった。

 嘘をついているようには見えない。むしろ、今にも壊れそうなほど真剣だった。


 ドクン、と心臓が跳ねた。


 凍りついていたはずの心が、彼の言葉でいとも簡単に揺らぐ。

 そんな自分が信じられなくて、どうしても納得できなくて、私は思わず視線を逸らした。


 視界の端で、春の光が床に落ちている。

 その穏やかさが、今の自分にはひどく残酷に思えた。


「わ、わかりました……。一ヶ月、ちゃんと考えてみます……」

  

 自分の声が、少し震えているのがわかった。

 エリック様は、胸に手を当てるようにしてほっと息を吐いた。


「ありがとう……!」

「べ、べつに……、考えてみるだけですから……!!」

「わかっているよ。でもありがとう」


 泣きそうな顔でそう言うエリック様。その安堵の表情に胸が苦しくなる。


 正直な気持ちを言うなら、もうこのまま何も考えずに離婚した方がいいと思っている。きっと、その方が傷つかない。

 でも同時に、どんな決断をするにしても、逃げたままでは後悔するのではないか、そんな思いもあった。


  だから私は小さく息を吸い、言葉を紡いだ。


「……まだ、しばらくは……よろしくお願いします」

「ああ、こちらこそ」


 静かな返事が返ってくる。

 その声と私を見つめる瞳には、私を想う気持ちがあふれているように感じて、なんだか気恥ずかしい。

 私はまた顔を伏せた。


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