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この溺愛にはウラがある  作者: 七瀬菜々


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31/33

31:1ヶ月の猶予(1)

 冷たい冬の夜風が頬を撫で、雲の切れ間から覗く月が、やけに遠く見える。

 一歩テラスに出ただけで、世界が変わったように静かだった。扉一枚隔てただけなのに、新年会の喧騒はほとんど届かない。まるで私だけ、別の場所に取り残されたみたいだ。


「今日も、散々だわ」


 今日の夜会、入場こそエリック様と腕を組んで歩いたものの、その後はいつも通りだった。

 私はひとりで挨拶をこなし、親族たちの嫌味を淡々と受け流した。

 ただ一つ違ったのは、聞き飽きた嫌味に返すべき愛想笑いすら、もう浮かべる気力が残っていなかったことだろう。

 私はテラスの柵に肘をつき、夜空を見上げて深く息を吐いた。

 

 こういう曖昧な天気の夜は、決まってあの夜の記憶が脳裏に浮かぶ。

 酷く冷たい眼差しで私を組み敷いたエリック様の顔と、きしむベッドの音。

 凍りついていく心と、それに反して熱を帯びていく体。


(……ああ、胸が苦しい)


 息が詰まり、心臓が冷たく縮む。

 どうして、こんなことになったのだろう。

 私は一体、何を間違えたのだろう。

 どうすれば良かったのだろう。

 わからない。

 もう、何も考えたくない。


「……あの頃に、戻れたら」


 ふと、昔のことを思い出した。

 あれは確か、結婚したばかりの頃だ。エリック様と二人で屋根の上に登って夜空を眺めた。

 あのときの彼は優しく笑っていて、私もまだ心から笑えていた。

 あの頃が一番幸せだった気がする。



「エチカ……」


 声をかけられ、振り返ると、ルネが立っていた。

 月明かりに照らされた彼女の顔は、ひどく悲しそうだった。


「ルネ?どうしてここに……ああ、本邸の手伝いに来ていたんだったわね」


 自分でも驚くほど、淡々とした声が出た。

 感情がどこかに置き去りになっているようだ。 

 ルネはそんな私をじっと見つめ、唇を噛んだ。


「……エチカ。そんな顔、しないでよ」

「顔?」

「ねえ、エチカ。笑ってよ。昔みたいに……」


 その声音は、優しさと焦りが入り混じっていた。


「ル、ルネ……?どうしたの?」


 私が問うと、ルネはそっと手を上げた。

 彼女の指先には見たことのない術式が、淡い光を帯びて空中に展開される。


「……え?な、何をしてるの?」

「エチカ。もう……先輩のことなんて、忘れてしまおう?」


 ルネはそう呟くと、私の返事を聞かずにこちらに向けて魔法を放った。

 私の体は反射的に動いた。気がつくと、無意識に防御魔法を展開していた。


 そして衝突した魔力が弾け、強い反動が生まれ、私の体は宙に浮き、そのまま後ろへと落ちた。


「…………え?」


 咄嗟のことで、理解が追いつかない。今、何が起きているの?


「エチカ!!」


 ルネは慌てて私に手を伸ばした。

 けれど、その指先は私に届かなかった。


 月が揺れ、世界が反転し――




 そこで、私の記憶は途切れた。




 *  *  *



 爽やかな光に誘われて、そっとまぶたを開けた。

 見覚えのある天蓋付きのベッド。ふかふかの布団。

 それから、甘い花の匂いが、静かに鼻をくすぐる。

 頭はぼんやりとして、体は布団に沈み込んだまま動かない。

 まだ、微睡みの中にいるみたいだ。


 だがそのとき、遠くから中央広場の大時計の鐘が響いた。


 ――カーン……カーン……


 その音が、意識の底に沈んでいた何かを引き上げた。


「……!」


 私は息を呑み、反射的に上体を起こした。心臓が跳ね、胸がざわつく。

 さっきまでの柔らかい世界が、一瞬で霧散した。


 辺りを見渡すと、見慣れた家具に見慣れた壁。

 間違いなく私の部屋だ。

 だけどどうして?どうして部屋にいるの?

 私は咄嗟に近くにあった鏡へと駆け寄った。

 すると、そこに映っていたのは、傷一つない自分だった。


「……どういう、こと……?」


 確かにテラスから落ちたはずなのに、腕にも、足にも、頭にも、傷跡が一つもない。


「あれは……夢?」


 だとしたら、随分とリアルな夢だ。

 あの冷たい風も、落下の感覚も、ルネの叫び声も体の奥に残っているのに。


「……そうだ、ルネ!」


 ルネに聞けば、これが夢だったかわかる。

 私は部屋を飛び出した。

 しかし、そこですぐ、一人のメイドとぶつかった。

 見覚えのない彼女は慌てて頭を下げた。


「も、申し訳ありません、奥様!お怪我はありませんか!?」

「……え、だ、大丈夫……です」


 別邸のメイドが、こんなふうに私を気遣うなんて今まで一度もなかったから、私は思わず目を丸くした。


「えーっと、見ない顔だけど……初めまして、なのかな?」

「はい!一昨日より奥様の身の回りのお世話を担当させて頂くことになりました、レイチェルと申します!」


 栗色のお下げ髪の少女が、ぱっと明るく笑った。

 年は私より五つほど下だろうか。若々しく、元気な子だ。


「……身の回りのお世話って、ルネは?」

「ルネ?」

「私の侍女のルネ。知っているでしょう?」

「ああ!その方でしたら、急遽実家に帰ることになったと旦那様から聞きましたよ?」

「……実家に?」


 嘘だ。反射的にそう思った。

 そして同時に、嫌な予感が背筋を走った。

 

「ちょっと、ごめん……!」

 

 私はレイチェルを押しのけ、廊下を駆け出した。

 すれ違う使用人たちが驚いた顔でこちらを見る。

 けれど、その誰一人として見覚えがない。

 屋敷の空気も、以前より明るくて、まるで私の知らない場所に変わってしまったみたいだ。


(……なにこれ?どうなっているの?)


 使用人を入れ替えた?いつ?

 わからない事だらけのまま、使用人の部屋が並ぶ一角にたどり着いた。

 そしてそこにあるルネの部屋の扉を勢いよく開けた。


「ルネ……!!」


 叫んだ声が虚しく響く。

 部屋の中は空っぽだった。家具も、荷物も、生活の痕跡すらない。

 まるで最初から誰も住んでいなかったかのようだ。


「お、奥様!!お待ちください!」


 息を切らせながら追いかけて来たレイチェルは、険しい顔で言った。


「奥様、あまり急に動かれてはお体に障ります!一週間も眠っておられたのですから!」

「一週間?」


 一週間……。新年会の後からってこと?


 ……本当に?


 私は振り返り、廊下の窓から外を見た。

 庭には春の花が咲き誇り、柔らかな陽光が差し込んでいる。

 どう見ても、季節はすっかり春だ。

 

「ねえ、私……新年会に参加していたはずよね?テラスから落ちて一週間眠っていたということ?」


 問いかけると、レイチェルは困ったように眉を寄せた。

 一昨日来たばかりの彼女には、どう説明すればいいのかわからないのだろう。

 

 そのとき――


「エチカ!」


 廊下の向こうから、エリック様が駆け寄ってきた。

 彼は私の顔を見るなり、迷いもなく抱きしめた。


「良かった。目を覚ましてくれて……!」


 抱きしめられた瞬間、私は息を呑んだ。

 エリック様から香るシダーウッドの匂いで、あの夜の記憶が鮮明に蘇ってしまったのだ。


「……い、いやっ!」


 私は反射的に彼を突き飛ばしていた。

 肩が震え、呼吸が乱れる。自分でも抑えられないほど、体が怯えている。

 エリック様はそんな私を見て大きく目を見開き、すぐに苦しげに唇を噛みしめた。


「……ごめん、急に」

「い、いえ……」


 気まずい沈黙が落ちる。

 廊下の奥からは何事かと使用人たちが集まってきていた。

 その視線に気づいたのか、エリック様は周囲を見渡し、申し訳なさそうに眉を寄せる。


「エチカ。少し、話がしたいんだが……」

「……」

「君も、この状況について色々と聞きたいんじゃないか?」

「……はい」

「とりあえず、君の部屋に戻ろう。医師の診察も受けてほしいし……」

「わ、わかりました」


 エリック様は私に触れようとして、しかし途中で手を止めた。

 私が怯えたのを見て、触れてはいけないと悟ったのだろう。その手が宙で震え、ゆっくりと下ろされる。


「歩けるか?」

「……はい」


 そう答えたものの、足元がふらつく。

 その様子にエリック様は、すぐにレイチェルへ視線を向けた。


「レイチェル、エチカを支えてあげてくれ」

「は、はいっ!」


 レイチェルは慌てて私のそばに駆け寄り、そっと腕を取った。

 彼女の手は温かく、優しい力加減だった。私はその支えに頼るようにして、ゆっくりと歩き出した。


 廊下を進むたび、使用人たちが道を開けて心配そうにこちらを見ている。

 だが、その誰一人として、見覚えがない。


(……本当に、何が起きているの?)

 

 

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