30:おやすみ、エチカ(3)
「記憶をなくしていた時のことを覚えていないってことはつまり……?」
「魔法を解除したら、次に目覚めたエチカは転落事故前のエチカに戻っているということだな」
「なるほど」
じゃあ、その期間にあったことをわざわざ説明しないといけないのか。
それは面倒だな……と、ぼんやり考える。
何かメモ書きでも残しておくか。そんな軽い思いつきを胸に、私は先輩を見上げた。
けれど、先輩は苦しそうな顔をして、こちらを見下ろしていた。
夕陽の光が彼の横顔に影を落とし、その影がどこか痛々しい。
「先輩……?どうしましたか?」
「……いや、ちょっと良くないことを考えてしまってな」
「良くないこと?」
問い返すと、先輩はほんのわずかに視線を逸らした。
「魔法を解除しなければ……君はこれから先も真っ直ぐに俺を見つめてくれるんじゃないかって」
「……え?」
「ルネの気持ちがよくわかるよ」
自分が傷つけたくせに、泣かせたくせに。
あの太陽のような笑顔を奪ったくせに。
それでも――いざ再び笑顔が見られたら嬉しくて、もう二度と失いたくなくて。
「勝手だよな。……ごめん」
先輩はゆっくりと息を吐き、夕陽の中で苦しげに笑った。
「先輩はずっと……、私の記憶が戻らなければいいと思っていたのですか?」
そう尋ねると、先輩の肩がわずかに揺れた。彼は目を伏せ、長い沈黙が部屋に落ちる。
夕陽の色がゆっくりと薄れていく中、迷いがその横顔に深い影を落とす。
やがて、押し出されるようにして、先輩は口を開いた。
「過去について触れなかったのは、スタンリーの言う通り、君に負担をかけないためだった。でも、それだけじゃなかったのも事実だ。もし記憶を取り戻してしまったら、君はもう二度と俺に笑いかけてくれる事はないのだろうから」
「先輩……」
「本当に、夢みたいな時間だったんだよ。君がもう一度俺の目を見て話してくれて、俺の言葉に一喜一憂して、俺に向かって笑いかけてくれる日が来るなんて思ってもみなかったんだ」
夢から覚めるのが怖くて、向き合わなかった。先輩はそう呟いた。
「ごめん、こんな話をして」
「いえ……」
「どうする?今夜、試してみるか?」
先輩は内心を誤魔化すような笑みを浮かべ、静かに問いかけた。
その声には覚悟と、そして消えない迷いが混ざっていた。
(……どうしよう)
私はしばらく考えた。
記憶を取り戻すと、今の私は消える。
目覚めてからの数ヶ月間で感じた気持ちも、先輩への想いも、全部――。
だったら……
「……先輩、提案があります」
私は先輩を見据えた。
「私は今から、未来の私に手紙を書きます。魔法を解除して目が覚めたら、私にその手紙を見せてください」
「手紙?」
「そうです。私たちの関係が拗れた経緯なども含めて、最近の出来事や今の私の気持ち、先輩の想いを全部手紙に記します。それを読んだら、目が覚めた後の私の心境も変わるかもしれないでしょう?」
私はニッと歯を見せて笑った。
自分でも驚くほど自然な笑みがこぼれた。胸の奥にあった不安が、少しだけ軽くなる。
「先輩は、私が離婚を望むと決めつけているみたいですけど……世の中に絶対はないのです」
そう言うと先輩は言葉を失ったように私を見つめた。
その表情が不安げに見えた私は、トンッと胸を叩いた。
「心配しなくても大丈夫ですよ!任せてください!私のことは私が一番良くわかっていますから!」
「エチカ……」
「ちょっと待っていてくださいね。ささっと書いてしまいますから!」
私は先輩を残し、ルネの部屋を飛び出した。
扉を閉めると、廊下に夕方の光が差し込んでいた。
西の空はまだ赤く染まり、窓から射し込む橙色の光が床に長い影を落としている。
その光の中を、小走りで駆け抜けた。
自分の部屋の前につき、扉を開けると、そこには見慣れた空間があった。
庶民の私には似つかわしくない豪華で広々とした部屋なのに、すっかりとこの身になじんでしまった。慣れとは恐ろしい。
「楽しかったな……」
ここで、ルネとくだらない話をしながら勉強した。
ここで、先輩にいっぱい甘やかしてもらった。
時々揶揄われたりして、私が怒って、先輩が甘い物でご機嫌を取ってきて。
そんな日々を、私は忘れてしまう。
だから……
「よし、書こう!」
目が覚めたとき、この手紙を読んだ私は、困惑するかも知れない。
でも、もし離婚という選択に少しでも迷いがあるのなら、私はもう一度先輩を信じる方へと背中を押したい。
私は机に向かい、椅子に腰を下ろした。
そして静かに筆を走らせた。
* * *
すぐに書き終わると思っていた手紙は、意外にも時間がかかった。言葉が思うように出てこなかったのだ。
私は時折休憩を挟みながら、軽食をつまみ、筆を走らせた。
目覚めてからの数ヶ月間は、困惑することも多かったけれど、楽しかった。
いつも一方通行だと想っていたから好きな人から愛されることがこんなに幸せなんて思わなかった。
まるで恋愛小説を読んでいるみたいで、少し恥ずかしくもあったけれど、幸せだった。
だからきっと目が覚めて、何も覚えていなくても、この気持ちだけは残っている。私はそう信じている。
「すっかり夜になってしまいましたね」
手紙を先輩に託した私はベッドに横になった。
天蓋付きのベッドにふかふかの布団。やわらかい枕。今すぐにでも眠れそうだ。
「こーら、まだ寝るなよ?」
横で魔法の解除の準備を整える先輩は、私の頭を軽く小突いた。
その手つきがどこか懐かしい。そういえば、実習の時にもミスしたら小突かれたっけ。
「よし、できた。じゃあ、始めるぞ?」
先輩はベッドに腰掛け、私をジッと見下ろした。
私の頬にそっと触れるその指先はわずかに震えている。
「先輩、大丈夫ですか?」
「大丈夫だ。間違っても失敗はしないから安心していい」
「先輩が魔法を失敗するなんて思ってないですよ。そうじゃなくて……。気持ちの面と言いますか……」
「……そっちも大丈夫だ。心配ない」
「本当に?」
「ああ」
「そっか……」
「エチカは?心配事、あるのか?」
「……あります。心配事というか、お願い事なんですけど」
「なんだ?」
「先輩……、私にキスしてくれませんか?」
「……え?」
「十七歳の私に……、恋はちゃんと実ったんだという証を下さい」
先輩の瞳が大きく揺れた。
驚きと戸惑いと、抑えきれない想いが一瞬にして浮かぶ。
視線が絡み合い、互いの呼吸がゆっくりと重なった。
夜の静けさが、二人の間だけ甘く震える。
先輩は私の頬に触れた手をそのまま、口元へと滑らせた。
そして親指の腹で確かめるように唇をなぞり、小さく息を吐く。
その手つきはまるで、触れた瞬間に消えてしまうものを確かめるようだった。
「……目、閉じて」
囁くような声に、私はそっと瞼を閉じる。
ランプの灯りが揺れ、影がゆっくりと重なり合う。
夜風がカーテンを揺らし、静かな音が部屋に満ちる。
そしてそっと、先輩の唇が私の唇に触れた。
優しくて、温かくて、胸の奥がじんわりと熱くなる。
十七歳の私のファーストキス。
その瞬間、魔法解除の術式が静かに発動した。
淡い光が視界の端で揺れ、身体がふわりと浮くような感覚に包まれる。
意識がゆっくりと遠のいていく。
最後に聞こえたのは、先輩の震える声だった。
「おやすみ、エチカ。……愛している」




