29:おやすみ、エチカ(2)
お義父様の許可を得て、私は先輩とともにルネのいる地下牢へ向かった。
地下牢といっても、公爵家のものは陰湿さとは無縁だった。石造りの廊下は清潔に保たれ、ランプの炎が柔らかい光を落としている。湿気も臭気もなく、むしろ静かすぎて足音だけがやけに響いた。
ルネの独房の前に立つと、鉄格子越しに彼女の姿が見えた。手枷も足枷もない。
逃げるつもりがないと判断されているのだろう。実際、彼女の佇まいからは諦めにも似た静けさが漂っていた。
「ルネ……」
声をかけると、ルネはほんの少しだけ目を見開き、そして申し訳なさそうに笑った。
「……痩せたね。ごめん」
その声は、以前よりもずっと細く、弱かった。
自分のせいで私が痩せたことを、彼女は痛いほど理解しているのだろう。
「ルネだって、痩せたね」
私は同じ言葉を返した。
ルネの頬はこけ、肩は以前よりもずっと華奢に見えた。
(上手く、言葉が出てこないな)
本当は、世間話のひとつでも挟んでから本題に入りたかった。
けれど、喉の奥に言葉が引っかかって、どうしても出てこない。
するとルネは小さく息を吐き、独房の上部にある小さな明かり取りの窓へ視線を向けた。
四角い窓からは、半分だけ欠けた月が覗いている。
「で?何か用?」
私が切り出すより先に、ルネが言ってくれた。
そういえば、喧嘩したときも、仲直りのきっかけをくれたのはいつもルネだったな。
私は静かに深呼吸をし、彼女を見据えた。
「……あのね、聞きたいことがあるの」
そう言うと、ルネは一瞬だけ目を伏せ、すぐにこちらを見た。
「記憶のこと?」
「どうしてわかったの?」
「わかるよ。あんたの考えてることなんて、全部お見通しよ……」
いつもなら、その後に『親友なんだから』と続くはずなのに、ルネは言いかけて言葉を飲み込んだ。
もう、言えないのだろう。私が、今もずっと変わらずにルネのことを親友だと思っていると言っても、きっとルネは受け入れてくれない。
自分がしたことの重大さをわかっているから、もう、私の親友を名乗ってはくれないのだ。
その事実が、胸の奥にひどく冷たい痛みを落とした。
「エチカの記憶を戻す方法は一つだけあるよ」
ルネは鉄格子の向こうから、まっすぐ私を見つめたまま、静かに言った。
「やっぱり、記憶を戻す方法を知っていたのね」
「そりゃね。禁忌の魔法だから使用例も少ないし、どんな副作用があるかわからない。上手く先輩の存在だけを消せたら良いけど、万が一にでもあたしの事を忘れてしまったら困るもの。だからもしもの時に、かけた魔法を解除する方法を調べておいたの」
「……相変わらず、準備いいね」
「まあね」
ルネは肩をすくめるように小さく笑った。けれどその笑みは、どこか自嘲めいていて、胸が痛んだ。
「でも、だったらどうして失敗した時にすぐ魔法を解除しなかったの?」
そう問いかけると、ルネは息を呑んだ。
鉄格子の向こうで、彼女の喉がかすかに上下する。
言いたくないことを、無理に引きずり出されるような沈黙が落ちた。
「…………記憶を無くしてからのエチカがとても幸せそうだったからよ」
「まさか、私のために?」
「ううん。自分のためよ。……エチカを追い詰めたのは自分なのに、失ったエチカの笑顔が見られたことが嬉しくて。もし記憶を取り戻したらこの笑顔はもう見られないかもしれないと思うと……怖くてできなかった」
「ルネ……」
名前を呼ぶと、ルネの肩がわずかに揺れた。
その反応が、彼女の後悔の深さを物語っていた。
「あたしの部屋に小さな木箱があるの。それ、底が二重になっていて、そこに魔法を解除する手順を書いたメモを隠しているわ。術式は難しいし、かなり魔力も必要にはなるけど、先輩なら多分出来ると思う」
ルネは再び、窓の方を見た。そして、突き放すように淡々と告げた。月明かりが彼女の横顔を淡く照らし、その影がどこか遠く感じられる。
「話はそれだけ?」
「う、うん……」
「じゃあ、もう帰りなさい。ここ、寒いし」
手をひらひらと振り、帰るよう促すルネ。その仕草はいつもの軽さに似ているのに、どこか無理をしているようにも見えた。
私はそんな彼女に、かけるべき言葉が見つからない。
先輩は私の肩をそっと抱き寄せ、もう帰ろうと促した。
私は言われるがまま、出口へと足を向ける。そして扉を開けた。
けれど、そこで自然と足が止まった。
(ルネの身柄は、明日の朝には引き渡される)
その事実が、冷たい刃のように胸を刺した。
彼女の刑罰がどうなろうと、多分もう、二度と会えない。
私は踵を返し、再びルネの独房の前に立った。そして鉄格子を掴み、声を張り上げた。
「ルネは私の一番の親友よ!それは何があっても変わらないわ!」
ルネが驚いてこちらを見る。その瞳が揺れた。
「今までずっと、ありがとう。いつもルネの優しさに甘えてばかりでごめんね。こんなことをさせてしまってごめんね。ずっとずっと大好きだよ!」
言葉がこれで合っているのかはわからない。でも、溢れて止まらなかった。涙が頬を伝い、石畳の床に落ちる。
それはルネも同じだったようで、彼女は私の目の前まで来て、鉄格子の隙間からそっと私の涙を拭った。
その指先は震えていた。
「勝手なことをしてごめんね、エチカ。こんなあたしをまだ、親友だって言ってくれてありがとう。あたしも大好きよ」
そう言うルネの目には、涙が溢れていた。
私たちはそれからしばらく、鉄格子越しに手を握り合ったまま、声もなく泣いた。
* * *
翌日、別邸に戻った私と先輩は、ルネの部屋の木箱を開けた。
二重底の下には、彼女が言っていたように小さなメモ書きが残っていた。
先輩はそれを手に取り、読み上げる。
「エチカを魔法で眠らせた後、以下の手順で全身に治癒魔法をかけていくこと。ただし…………、次に目覚めたエチカは、記憶がなくなっていた間のことを覚えていない……?」




