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この溺愛にはウラがある  作者: 七瀬菜々


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28:おやすみ、エチカ(1)

 お義父様の言葉が刺さったのか、先輩は俯き、口をつぐんだまま動かない。

 確かにお義父様の言う通りだ。今の私は記憶がないので、また一から貴族としての勉強をせねばならない。

 けれど、一度学んだことだし、勉強は好きだし、何とかなる気がする。

 しかし、そう言うと先輩は首を横に振った。


「嫁いできた時のエチカも同じことを言っていた」

 

 結婚当初の私はやる気に満ち溢れ、『大丈夫だ』と自信満々に言っていたそうだ。

 だから、先輩はそんな私を見て安心していたみたいだけれど、実際は違った。現実はそう甘くはなかった。

 庶民の世界とはまるで違う貴族社会の空気そのものが、自由な私には合わなかったのだろうと先輩は言う。


「日記を読んだのなら、わかるだろう?」

「それは……そうかもしれませんが……」


 私が追い詰められてしまったのは、私がちゃんと先輩に相談できなかったからだ。今なら先輩のことも頼れるし、コレット様だってもういない。だから心配する必要は無い。きっと今度は上手くいく。

 けれど、そう伝えても先輩は納得しない。


「コレットがいなくなったところで、社交界の冷ややかな目も親族の態度もすぐには変わらない。また苦労をかけることは目に見えている」

「そんなことはわかっています。だからこそ、二人で乗り越えましょうと……」


 そこまで言って、私はハッとした。

 口に出した瞬間、自分の言葉が空振りしたような違和感が胸に刺さる。

 

「……先輩、まさか離婚を考えているんですか?」


 そう問いかけた瞬間、先輩はわずかに肩を揺らし、視線をそらした。

 彼の仕草に私は眉をひそめる。


「なにそれ……。あれだけ、私のことを好きだと、離さないと言っていたくせに?監禁までしたくせに?」

「俺は……」

 

 先輩の喉がかすかに震えた。

 何か言おうとして、けれど声にならず、そこで途切れる。

 その途切れた気配が、私の胸をひどく締めつけた。

 その時――


「お部屋にご案内します」

 

 控えめなノックとともに、メイドが姿を見せた。

 張りつめていた空気が、強制的に断ち切られる。私も先輩も、反射的に視線を伏せ、会話を飲み込んだ。


 私たちは席を立ち、メイドに案内されて廊下へ出た。歩く間、先輩は一度も私を見なかった。

 その横顔が、ひどく遠く感じられた。


「こちらをお使いください」


 用意された部屋は二部屋だった。私は一瞬だけ戸惑ったが、メイド曰く、親族会の時はいつも二部屋用意していたらしい。

 私たちの夫婦仲が良くなかったから考慮されていたのか。それとも、そもそも二人を夫婦と認めていないから別室なのか。

 どちらにせよ、不愉快だ。私はメイドに「部屋は一つでいい」と告げ、驚く先輩の腕を掴んで強引に部屋へ入った。



 部屋に入ると、静けさが一気に押し寄せた。私は先輩に背を向けたまま、胸の奥に溜まっていた言葉を吐き出した。


「……先輩は、『今度こそ俺が守るから、だからもう一度頑張ってほしい』とは言ってくれないんですか?」


 しばらく沈黙が落ちた。

 先輩は拳を握りしめ、苦しげに息を吐いた。


「言って、良いのか?」


 弱々しい声だった。

 あまりにも頼りなくて、思わず振り返ってしまう。


「良いに決まってるじゃないですか!」

「……本当に?」

 

 叫ぶように言った私に、先輩はゆっくりと顔を上げた。

 彼の目は不安げに揺れていた。

 

「今のエチカは、結婚してからの記憶がないからそう言えるだけじゃないか?」

「それは、どういう意味ですか?」

「今のエチカは十七歳のエチカだ。俺の事が好きだと全身で伝えてくれていた時の君だ。でも、本来の二十二歳の君は、俺との離婚を望んでいた。そうさせたのは俺だけど、もしこれから先、記憶が戻ることがあったら?その時、エチカはきっと後悔するよ。せっかく夫側の瑕疵で離婚できたのに、その機会を逃してしまった、とね」


 先輩は唇を噛み、苦しげに目を閉じた。

 確かに、記憶が戻った後の自分がどんな判断をするかは予測できない。あの日記を見る限り、私は先輩に絶望していた。

 でも、だからといって一連の経緯を知った後も離婚したいと言うかどうかなんて、誰にもわからない。


 私はふと視線を窓の外へ向けた。テラスに落ちる夕陽の光が、ゆっくりと色を変えていく。

 その移ろいを眺めているうちに、頭の奥で何かが繋がった気がした。

 そして、はたと気づく。


「……だったら、記憶を取り戻せばいいんじゃないですか?」


 私がそう言うと、先輩は怪訝な表情を浮かべた。


「エチカ、それは簡単なことじゃない。今だって、記憶が戻る気配すらないじゃないか」

「でも、先輩が『記憶が戻った後の私の気持ちはわからないから』と言うなら、そうするしかありません」

「それはそうだが……」

「私、ルネなら何か知っている気がするんです」

「……どういうことだ?」

 

 先輩の眉がわずかに動く。私は一歩、彼に近づいた。


「今までは頭を強く打ったことが原因だと思って、対処法を考えていましたけど……、実際はそうじゃない可能性もあると思うんですよね」


 ルネは禁忌の魔法を使って、私の記憶から先輩の存在を消そうとした。もしこの記憶喪失が魔法の失敗による副産物だったとしたら、魔法でどうにかできる可能性だってあるはずだ。


「ルネが詳細を調べずに魔法を使うとは考えにくいですし、この魔法について詳しく聞き出せれば何かわかるかも?」

「……なるほど」

「先輩、お義父様に面会の許可をとってもらえませんか?」


 私は先輩の目をまっすぐに見つめた。

 先輩はしばらく迷っていたが、最後には、小さく頷いてくれた。








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