27:叱責(3)
「ば、馬鹿にしてんじゃないわよ!庶民の分際で!!」
そう叫び、私の方に花瓶を投げるコレット様。
私は咄嗟に目を閉じた。空気を裂くような風切り音が耳元をかすめ、心臓が跳ね上がる。
花瓶の割れた大きな音が室内に響いた。
だがなぜか、花瓶は私には当たらなかった。
恐る恐る目を開けると、そこにはびしょ濡れになった先輩がいた。
「せ、せんぱい……?」
「エチカ、大丈夫か!?」
「あ、私は全然……」
「そうか。良かった」
「でも、先輩濡れて……」
先輩の肩から滴る水滴が、ぽたりと床に落ちた。
私を庇うために、迷いなく飛び込んでくれたのだろう。
「ご、ごめんなさい!大丈夫ですか!?」
「服が濡れただけだから、大丈夫」
私は慌ててハンカチを差し出した。
先輩はそれを受け取ると、軽く笑ってみせた。
その落ち着いた表情が、私の心臓をどきりと跳ねさせた。
「あ、ありがとうございます。庇ってくれて……」
「魔法を使って防げば良かったな。ここ、濡れてる」
先輩は私の手を掴み、ドレスの袖に少しだけかかってしまった水滴をハンカチで拭った。
あまりにも優しく触れるものだから、私は思わず固まってしまった。
「まったく」
お義父様は散らばった花瓶の破片を見渡し、頭を押さえた。そして前髪の隙間から、鋭くシルヴァン様を睨みつける。
その視線の意味を察したシルヴァン様は静かに立ち上がり、コレット様の腕を掴んだ。
「ちょっと、何をするのよ」
「コレット、もう行こう」
「行くって、どこによ」
「君の部屋だよ。荷造りしないと」
「い、いやよ!どうして私が!!」
「僕も嫌だよ。君と別れたくはない。だけどこの家は父の家だ。当主が出て行けというのなら出て行かねばならない」
「あなた、次期当主でしょう!?」
「そうだよ。だからこの家はまだ僕の家じゃない。……まあ、その立場も今は危ういけど」
シルヴァン様は苦笑した。その笑みは、どこか自嘲めいていて痛々しい。
「何それ、私のせいだと言いたいの?」
コレット様は眉を顰め、シルヴァン様を睨みつけた。
シルヴァン様はゆっくり首を横に振る。
「そんなこと言ってないよ。立場が危うくなったのは僕の責任だ。……ただ、もし君が、モンフォールの名を無くした僕とこれからも一緒にいてくれるのなら……」
「馬鹿にしないでよ。モンフオール公爵になれないあんたに価値なんてないでしょ」
「だよね……。はは……」
結局、シルヴァン様の思いは最後まで彼女には届かなかった。
彼は取り乱すコレット様の腕を引き、強引に部屋を出て行った。
扉が閉まる直前まで、ヒールの音が乱暴に床を叩いていた。
「やれやれ。やっと静かになった」
お義父様はふうっと長く息を吐き、軽く手を上げてメイドを呼んだ。
メイドは慌ただしくも手際よく動き、飛び散った花瓶の破片を片付け、
水を吸ったテーブルクロスと、破片が飛んだケーキを静かに下げていく。
(そういえば、結局、一口も食べていないな)
あの空気で食べられるはずもない。むしろ下げてもらえて助かったくらいだ。
私はケーキを下げてくれたメイドに思わず「食べられなくてごめんなさい」と謝ってしまった。
すると、メイドは驚いたように目を見開き、ほんの一瞬だけ、柔らかく微笑んだ。
「エチカ、この場では構わないが、親族会ではメイドに対してそのような態度をとってはいけないよ」
「……え?どうして、ですか?」
「君が詫びることで、誰の不手際になると思う?」
「えっと……」
「コックか、給仕か、それともこの家のもてなしそのものか。いずれにせよ、不満があったと受け取られる」
お義父様は淡々と、しかし容赦なく指摘した。
「善意であっても、場を誤れば礼を欠く。気をつけなさい」
「は、はい!気をつけます!」
そういえば、ルネがそんな話をしていた気がする。
私は、ちゃんと彼女の授業を聞いていなかった自分を恥じた。
すると、お義父様はふっと目元を緩め、静かに頷いた。
「……素直に学ぼうとする姿勢は悪くない。今はそれで十分だ」
「は、はい……。ありがとうございます」
「うむ。それよりも、エリック。お前だ」
お義父様は咳払いをし、鋭い眼差しを先輩へと向けた。
その瞬間、空気がまた変わった。
さっきまでの騒ぎとは違う、もっと冷たく、もっと重い空気。
「お前は何をしている?」
「な、何とは……」
「自分の妻を守ることもせず、侍女の策略にも気づかず、挙句、精神干渉魔法にかかるとは……情けない」
「あ、あの、お義父様。別に先輩が悪いわけでは……」
「いいや、エチカ。エリックが悪いんだ。なあ?そうだろう?エリック」
「……はい」
先輩の声は小さく、苦しげだった。その横顔を見て、私の胸は少し痛む。
「お前にはしかるべき時にしかるべき相手を娶らせるつもりだった。お前とて、自分が自由に結婚出来る身分ではないとわかっていたはずだ。それなのに、お前はあろうことか庶民の娘を連れてきた」
「……はい」
「だから、結婚したい相手がいると報告を受けた時に私は言ったな?お前が義務を放棄してでも庶民の娘を娶りたいというのなら、好きにすれば良い。だが、私は一切手を貸さないと」
「言われました……」
「モンフォール家の名は庶民の娘には荷が重い。親族は簡単には認めないだろうし、社交界の目も冷ややかだ。そう忠告もした。それでもなお、エチカとの結婚を譲らなかったのはお前自身だ。違うか?」
「違いません……」
「私はそこまでの覚悟があるのならと結婚を許した。お前が妻を全力で支え、守るつもりなのだと信じたからだ。……なのにお前ときたら」
お義父様は大きくため息をつき、今度は私の方を見た。
「どうせ最愛の女と結婚できたことで浮かれていたのだろう。だから、妻の大丈夫を信じて、すべて順調だと思いこんでいた」
「……」
先輩は何も言えず、ただ唇を噛んだ。
その姿が痛々しくて、胸が締めつけられる。
「どうやら、私は息子の教育を間違えたようだ。二人揃って情けない」
その言葉は、先輩だけでなく私にも突き刺さった。
お義父様の言葉はどれも反論できないほど、正しい。
「エリック、今後のことについてはよく考えろ。記憶がない以上、エチカはモンフォール公爵家に相応しい人間になるため、再び同じ努力をせねばならない。あのような苦労をまた、味わわせねばならない」
「それは、どういう意味ですか……?」
「みなまで言わねばならんか?離婚も視野に入れておけという意味だ」
「……っ!」
先輩の顔が苦痛に歪む。私も、ぎゅっとドレスのスカートを握った。
離婚は、したくない。ずっと先輩のそばにいたい。
「ロアン家にはすでに謝罪を入れている。ロアン家はいつでも戻って来ていいと言っていた。むしろ娘が戻ってくることを望んでいた。当たり前だな。エチカはロアン夫妻が大切に育てた娘なのだから」
「……」
「強制はしない。だが、私にはお前に妻が守れるとは思えんな。……まあ、じっくり考えろ。とりあえず今日は泊まっていくといい」
お義父様はそう言い残し、静かに部屋を出ていった。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
残された空気は重く、痛いほど静かだった。




