第3話:静かすぎる夜
電話の向こうで母が黙った。長い長い沈黙のあと、電話は切れた。畳の目を数えるくらいの気持ちで、通話終了の画面を眺めていた。
それから数日のうちに、綾子からメッセージが来た。
『もうずっと、既読もつけてくれないんだね。わかった。もういいよ。別れよう。元気で』
返信しなかった。三年ぶんの何かが終わったはずなのに、胸はぴくりとも痛まなかった。
管理会社からは封書が来た。家賃二か月ぶんの滞納。お支払いが難しい場合は退去のご検討を。ふうん、と思った。ふうん、だけだった。
そんなある夜、十時前に目が覚めた。昼夜はとっくに逆転していた。
真っ暗な部屋に、冷蔵庫のモーター音だけが低く続いていた。スマホを見た。三日間、通知が一件もない。督促も、着信も、誰も、何も、俺に請求してこない。
静かだ。静かすぎる。
試しに、親父の顔を思い浮かべてみた。何も来ない。綾子の名前を、声に出してみた。何も来ない。心のどこを叩いても、留守の家みたいな音がした。
時効ってのは、そういうことだった。借りが消えるんじゃない。貸し借りの相手ごと、帳簿から消えるのだ。母の帳簿からも、綾子の帳簿からも、もう俺という項目は消えている。誰にも取り立てられない人生は、誰にも待たれていない人生だった。
背骨を、細い電流が駆け上がった。じり、と。切れかけの蛍光灯みたいな、警告の痺れだった。
―俺は、生きてるのか?
震えない手で、アプリを開いた。震えないことが、こんなに怖いとは思わなかった。中折れ帽の男のアカウントは、削除されていた。規約違反で飛ばされたのか、最初からなかったのか。俺は検索欄に「時効」と打ち込んだ。一件だけ、引っかかった。
〈時効の取り消し、承ります〉
価格:20,000円
商品の状態:傷や汚れあり
受け渡し:麻布十番駅7番出口にて手渡し。今夜1時まで
説明:つらいですよ。それでも、生きている実感はあります。返品・返金には応じません。
俺は財布を掴んで走った。コンビニのATMで、残高のほぼ全部、二万円をおろした。時間外手数料三百三十円。それに何も感じない自分が、まだそこにいた。急げ。大江戸線に飛び乗り、地の底の駅から地上へ駆け上がる。
十番稲荷の鳥居の脇には、今度は全身黒ずくめの女が立っていた。黒いスカーフで顔を覆った、たぶん中年の女。
「取り消せるんですか。援用した時効は、取り消せないはずじゃ」
俺ももう、それくらいの理屈は覚えていた。女はゆっくり首を振った。
「民法では、ね」
スカーフの奥で、声が少しだけ笑った。
「心の帳簿は、法律より甘くできているんです。―承認、といいます。借りがある、と自分で認めること。認めた瞬間、時計の針は振り出しに戻ります。時効はね、何度でも、やり直しがきくんですよ」
二万円と引き換えに、黒い小瓶が手に載った。軽い。振っても、音ひとつしない。その場で蓋を開けると―何も、出てこなかった。




