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第4話:梅の握り飯


「……空じゃないか」


「ええ」


 女は頷いた。瓶を寄越したその指先は、さっきからずっと、細かく震えていた。


「援用は、煙が代わりにやってくれます。でも承認だけは、あなたの口でしか言えません。二万円は、それを言う勇気のお代です」


 俺は空っぽの瓶を握りしめた。息を吸って、吐いて、吸った。


「……認めます。ぜんぶ、俺の借りだ」


 言い終わる前に、堰が切れた。鼻の奥で、線香花火の燃え尽きる寸前の、焦げた匂いがした。

 親父の点滴。母の沈黙。綾子の『元気で』。線香花火の火の玉が落ちる、あの一瞬まで。家賃。無職。三行で止まった履歴書。残高八百九十三円。それが全部、いっぺんに胸へ流れ込んできて、俺は鳥居の柱に手をついた。苦しい。重い。悪い借りだけじゃない。いい借りまで、全部が利子をつけて戻ってきた。指先が震えていた。

 震えている。俺の手が、震えている。

 なんて久しぶりの感覚だろう。俺は深夜の麻布十番で、電柱の陰の酔っぱらいみたいに、少しだけ泣いた。


 部屋の隅の五百円玉貯金の缶をこじ開けると、じゃらじゃらと、親不孝の旅費くらいは出てきた。始発を乗り継いで、三時間かけて実家の町の病院へ行った。

 廊下で会った母は、泣くのか怒るのか決めかねたような、くしゃくしゃの顔になった。「……おかえり」それだけ言うと、目元を押さえて、廊下の自販機のほうへ歩いていった。

 病室の親父は左脚を吊られて、病衣から出た腕が、輪転機を回していた頃の半分に見えた。かすかに、インクの匂いがした。機械の匂いじゃない。あの人の皮膚に染みついている匂いだ。


「……仕事は」と親父は窓の外を見たまま言った。


「ない。半月前に切られた」


「馬鹿が」


 親父はふっと息だけで笑って、顎でパイプ椅子を指した。


「まあ、座れ」


 俺は座った。座って、十年ぶんの最初のひと言を、やっと口に出した。


「あのとき言ったこと―悪かった」


「利子がついとるぞ」


「……分割で払う」


 返事はなかった。かわりに親父は、天井を見たまま言った。


「握り飯。売店の。梅な」


 俺は売店へ走った。たぶんこれが、最初の一回ぶんだった。

 時効になったつもりでいた借りは、一円も減らずに残っていた。ただしそれは督促状じゃなく、パイプ椅子一脚ぶんの席と、梅の握り飯の形で、十年間ずっと取り置かれていたのだった。消えて困るのは、いい借りのほう。あの男の言うとおりだった。

 東京へ戻る電車で、綾子への長い謝罪文を書いては消し、書いては消し、結局一行だけ送った。


『ごめん。全部、会って話したい』


 既読はついた。返事は、こなかった。

 翌日から倉庫のバイトに入り、夜は履歴書を書いた。管理会社には、滞納ぶんを分割で払わせてくださいと頭を下げた。履歴書は書きすぎて手がつって、その痛みがいちいち嬉しかった。面接で落ちるたび、ちゃんと悔しかった。悔しさは、生きている者にしか請求されない。


 三か月後の月曜の朝、面接に向かう電車の中で、俺は久しぶりにあのアプリを開いた。癖というのは怖い。そして、見つけてしまった。


 〈時効、買います〉

  希望価格:1,000,000円

  説明:心の中のぜんぶを時効にしてください。悩みがひとつもない人生を希望します。金額は相談できます。急いでいます。


 出品ではなく、「買います」の投稿だった。そんな機能、このアプリにあっただろうか。

 百万円。画面の向こうに、あの夜の俺と同じ顔をした誰かがいる。「急いでいます」の六文字が、あの頃の俺の呼吸と同じ速さで打たれている。

 思わず、短く笑った。隣の吊り革の男が、横目でこっちを見た。俺はコメント欄に、ひと言だけ書き込んだ。


「やめとけ。それは平穏じゃなくて、心の安楽死だ」


 打ち込んだ文句が、頭の中で、あの中折れ帽の男の声で再生されていることに気づいて、指が一瞬止まった。数秒後、俺のコメントは削除され、続けてブロックされた。まあ、そうだろう。あの頃の俺も、聞く耳なんて持っちゃいなかった。

 俺はアプリごと消した。

 心の時効は、完成しない。親父の寝顔に、綾子の名前に、まだ払い終わらない借りを認めるたび、時計の針は振り出しに戻る。ひと晩で時効になった悩みは、かたちを変えない。ただ、持ち主を消すだけだ。俺に要るのは白い煙じゃなく、自分の借りを少しずつ返しながら歩くための、魂の踵にできる硬い皮のほうだ。

 綾子からの返事は、三か月たった今も来ていない。それでも彼女の名前を、俺は帳簿から消さない。

 面接先は、麻布十番の雑居ビルだった。

 地下六階のホームから、長いエスカレーターを三本乗り継いで、俺は地上の光のほうへ上っていく。胸の中では、返しきれない借りが、心臓と同じ拍子で鳴っている。


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