第2話:時効を、援用します
白い瓶を上着にしまい、地下六階までの長い下りを引き返して、終電にぎりぎり間に合った。
アパートに帰り、敷きっぱなしの布団に寝転んで、俺は慎重に『ひと言』の品定めを始めた。
宝くじだの絶世の美女だのという妄想がまず浮かんだが、これは願いを叶える道具じゃない。消せるのは、もう心の中にあるものだけ。なら、何を消す?
家賃。二か月ぶん、たまっている。管理会社の着信を、俺は三回無視している。
契約。契約社員として三年目、次の更新の話がまだ来ない。課長は最近、俺と目を合わせない。机の引き出しには、春に三行で止まったままの履歴書が入っている。
綾子。付き合って三年。去年の夏、花火大会の帰りに、アパートの前でふたり線香花火をした。火の玉が落ちる前に「きれいだ」と言ったのは俺のほうだった。なのに将来の話になるたび、曖昧に笑って逃げた。正月のメッセージは『今年こそ、ちゃんと話そうね』。もう七月だ。
それから―親父。
十年前、実家の潰れかけた印刷所を継げと言われて、俺は言ったのだ。あんたの人生ごと沈んでいく船に、俺まで乗せるな。親父は言った。二度と敷居をまたぐな。それきりだ。謝るなら早いほうがいいと知りながら十年がたち、いまさら謝るほうが不自然だろうと、俺はあれを勝手に時効あつかいにしてきた。完成してもいないくせに。
消したいものをひとつ挙げると、芋づる式に十の心配がついてくる。金は仕事に、仕事は綾子に、綾子は親父につながっていて、どこから切っても血が出る。なら、全部消すしかないじゃないか。心配のない人生。それしかない。
俺は蓋をひねり、息を吸った。
「俺の心の中にあるもの、ぜんぶ―時効を、援用します」
白い煙がゆっくりと立ちのぼり、顔を包んだ。甘い、線香花火の始まりの匂いがした。
驚くほど、心が凪いだ。凪ぐという言葉を、体で初めて理解した。
その夜、俺は十年ぶりくらいの深さで眠った。
翌朝、二百円に値上がりしたツナマヨおにぎりを、値札も見ずにふたつ買った。うまかった。出社の途中、いつも匂いだけ吸って素通りする喫茶店の前で、足が勝手に扉を押した。珈琲一杯八百円。通帳の残高が頭をかすめ、かすめただけで消えた。うまい。明日も来よう。我慢ばかりしてきた自分が、遠い他人みたいに思えた。
会社には四十分遅刻した。まあ、そういう日もある。
昼過ぎ、会議室に呼ばれた。課長は書類を揃えながら、俺の顔を見ずに言った。
「坂田くん、来月の契約なんだけどね。会社としては、更新は難しいという判断で」
「わかりました」
課長が初めて顔を上げた。あんまり早く頷いたからだろう。食い下がる理由が、ひとつも見当たらなかった。差し出された書類にその場でサインした。ペン先は迷わなかった。残りは有休消化でいいから、と課長は言った。悲しくも悔しくもなかった。あれだけしがみついていた会社なのに、むしろせいせいしていた。段ボール半分の私物を抱えて、俺は昼の道をぶらぶら帰った。例の喫茶店にもう一度寄った。八百円。うまい。それだけだった。
帰りにコンビニで、食いたかったものを二万円ぶん買った。時効が五千円で買えたんだ、二万円がなんだ。ビールを三種類も冷蔵庫に並べたら、ちょっとした富豪の気分だった。
それから一週間、俺は部屋から出なかった。食って、飲んで、眠った。何を食っても、うまい、で終わった。うまい、の先が、どこにもなかった。それだけの日々は、羽根布団みたいに軽くて、あたたかかった。
八日目に、母から電話が来た。
「お父さんが、配達の途中で事故に遭って。命は大丈夫なんだけど、入院になっちゃって。ね、一度だけでも、帰ってきて」
十年間、盆と正月のたびに同じことを言い続けてきた声だった。俺は自分の口から出る声を、他人事みたいに聞いていた。
「……ああいうのは、もう時効だから」




