第1話:〈時効、売ります〉
〈時効、売ります〉という出品を見つけたのは、木曜の終電間際だった。
残業を終えて、麻布十番駅の地下六階まで降りる。都営大江戸線のホームは、都内でも指折りの深さだ。地の底みたいなホームで終電を待つ数分のあいだ、フリマアプリを眺めるのが俺の習慣だった。売れ残りのギフト券でも安く拾えないかという、しみったれた習慣だ。手取り十九万の身には、百円の得も馬鹿にできない。
着信履歴には、三日前の母の不在着信が残っている。見て見ぬふりにも、年季が入っている。
スクロールする指が、止まった。
〈時効、売ります〉
価格:5,000円
商品の状態:未使用に近い
受け渡し:麻布十番駅7番出口にて手渡し。今夜1時まで
説明:本物です。心の中のどんな出来事でも、時効にできます。対象はひと言で指定してください。返品・返金には応じません。
実体のないものの出品は、規約違反のはずだ。現金の手渡しも違反。二重にまともじゃない。いいねもコメントも、ゼロ。通報ボタンに伸ばした指が、なぜかコメント欄を開いて「今から行きます」と打っていた。七番出口は、いま俺が立っているホームの、ほとんど真上だったのだ。まるで、この出品のほうが先に俺を見つけていたみたいだった。終電まで、まだ二十分あった。
長いエスカレーターを駆け上がって地上に出ると、麻布通りは静かだった。商店街の灯はとうに落ち、坂の多いこの街は、夜になると急によそよそしくなる。十番稲荷の小さな鳥居の脇に、男が立っていた。黒いトレンチコートに、頭の寸法の合っていない中折れ帽。顔は、よく見えなかった。
詐欺だろうか。だが五千円だ。飲み会一回ぶん。昼のコンビニ弁当を一週間我慢すれば済む。俺は早口で訊いた。
「本当に、効くんですか」
「効きます」
「……昔のことにも?」
「昔のことにこそ」
男は懐から白い小瓶を取り出した。駄菓子屋のラムネみたいな、頼りない瓶だった。
「たとえば、家賃の滞納も消えるんですか」
「あなたの心の中でなら」
男の声に、初めてかすかな笑いが混じった。
「世界のほうは一円も変わりませんよ。変わるのは、あなたが気に病むかどうか。それだけです。……時効というものはね、完成しているだけでは効かないんです。口に出して、援用する。そこで初めて、消える」
「えんよう……?」
「『時効にする』と、自分で宣言することです。期間が足りないぶんは、この瓶が完成させます。あなたは蓋を開けて、ひと言だけ。取り消しは、できません」
五千円札を渡すと、男は瓶を押しつけてきた。その手は、一度も震えていなかった。男は帽子のつばの奥で、ひとりごとみたいに言った。
「みなさん、悪い記憶を消しに来るんですがね。消えて困るのは、いい借りのほうなんですよ」
意味を訊き返す前に、男は暗闇坂のほうへ溶けていった。




