↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/4

第1話:〈時効、売ります〉


〈時効、売ります〉という出品を見つけたのは、木曜の終電間際だった。


 残業を終えて、麻布十番駅の地下六階まで降りる。都営大江戸線のホームは、都内でも指折りの深さだ。地の底みたいなホームで終電を待つ数分のあいだ、フリマアプリを眺めるのが俺の習慣だった。売れ残りのギフト券でも安く拾えないかという、しみったれた習慣だ。手取り十九万の身には、百円の得も馬鹿にできない。


 着信履歴には、三日前の母の不在着信が残っている。見て見ぬふりにも、年季が入っている。


 スクロールする指が、止まった。


 〈時効、売ります〉

  価格:5,000円

  商品の状態:未使用に近い

  受け渡し:麻布十番駅7番出口にて手渡し。今夜1時まで

  説明:本物です。心の中のどんな出来事でも、時効にできます。対象はひと言で指定してください。返品・返金には応じません。


 実体のないものの出品は、規約違反のはずだ。現金の手渡しも違反。二重にまともじゃない。いいねもコメントも、ゼロ。通報ボタンに伸ばした指が、なぜかコメント欄を開いて「今から行きます」と打っていた。七番出口は、いま俺が立っているホームの、ほとんど真上だったのだ。まるで、この出品のほうが先に俺を見つけていたみたいだった。終電まで、まだ二十分あった。


 長いエスカレーターを駆け上がって地上に出ると、麻布通りは静かだった。商店街の灯はとうに落ち、坂の多いこの街は、夜になると急によそよそしくなる。十番稲荷の小さな鳥居の脇に、男が立っていた。黒いトレンチコートに、頭の寸法の合っていない中折れ帽。顔は、よく見えなかった。


 詐欺だろうか。だが五千円だ。飲み会一回ぶん。昼のコンビニ弁当を一週間我慢すれば済む。俺は早口で訊いた。

「本当に、効くんですか」


「効きます」


「……昔のことにも?」


「昔のことにこそ」


 男は懐から白い小瓶を取り出した。駄菓子屋のラムネみたいな、頼りない瓶だった。


「たとえば、家賃の滞納も消えるんですか」


「あなたの心の中でなら」

 

 男の声に、初めてかすかな笑いが混じった。


「世界のほうは一円も変わりませんよ。変わるのは、あなたが気に病むかどうか。それだけです。……時効というものはね、完成しているだけでは効かないんです。口に出して、援用する。そこで初めて、消える」


「えんよう……?」


「『時効にする』と、自分で宣言することです。期間が足りないぶんは、この瓶が完成させます。あなたは蓋を開けて、ひと言だけ。取り消しは、できません」


 五千円札を渡すと、男は瓶を押しつけてきた。その手は、一度も震えていなかった。男は帽子のつばの奥で、ひとりごとみたいに言った。


「みなさん、悪い記憶を消しに来るんですがね。消えて困るのは、いい借りのほうなんですよ」


 意味を訊き返す前に、男は暗闇坂のほうへ溶けていった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。