第8話:陸軍の宿営教範を無視して就寝したら、うとうとした瞬間に強烈な蹴撃を放つ羽目になった
『いや、陸軍の宿営教範によれば、限られた寝台の有効活用は兵站の基本だッ! 戦地において物資と空間を無駄にせぬことこそ、強兵の第一歩であるぞ、佐倉殿!』
シングルベッドの占有権を主張するために、岩崎軍曹はもっともらしい顔をして、いかにもカチコチな軍隊式の屁理屈を並べ立て始めた。
だが、21世紀の合理主義を生きる女子大生の私は、そんな80年前の不条理な主張を1ミリたりとも相手にするつもりはなかった。
「はいはい、兵站ね。お好きにどうぞ」
私は軍曹の熱弁を完全に無視してユニットバスへと向かい、シャカシャカと激しく歯を磨いた。口をゆすいでから、ビジネスホテルに備え付けられていたワッフル生地の寝巻きに袖を通す。
バスルームの扉を開けて客室に戻ると、案の定、ベッドの横に浮いている軍曹が、私の寝巻き姿をニヤニヤとした卑しい笑顔で見つめていた。
普段ならここで三度目の物理ビンタを叩き込んでいるところだが、雄別炭鉱の藪漕ぎから始まり、阿寒川のレンガトーチカでの遭遇、そして釧路駅前への夜間ドライブと、今日一日の強行軍で私の体力は完全に限界を迎えていた。
もはや怒る気力すら失せてしまった私は、軍曹の視線を無視してシングルベッドの中に潜り込み、背を向けた。掛け布団を頭まで被ると、張り詰めていた緊張が解けたせいか、急激に重たい疲労感が全身に押し寄せてくる。明日にはピンクのハスラーで札幌へ帰らなければならないのだ。睡眠時間の確保が最優先だった。
意識が急速に遠のき、うとうとと心地よい眠りに落ちかけた、まさにその瞬間だった。
――服の上から、胸元に、むにゅりとした不気味な違和感が走った。
脳内の防衛レーダーが瞬時に最大出力で警報を鳴らす。
目を開けると、いつの間にかベッドの中にすり抜けて侵入してきた岩崎軍曹の手が、私の胸をガシッと鷲掴みにしていた。軍曹は恍惚とした表情で、自らの手のひらの感触に震えながら、ボソリと呟いた。
『……おお、柔らかいおっぱいだ……。戦地へ赴く前に、旭川の街で見かけた佳子ちゃんを思い出すな……』
(――佳子ちゃんが誰だか知らないけど、死ねッ!!!)
限界突破した怒りと睡眠を邪魔された怨念が、私の右脚へと爆発的に収束した。
私は目を血走らせたまま、掛け布団を跳ね除けると、寝返りの遠心力をフルに乗せた渾身のローリングソバット――思い切りの良い前蹴りを、軍曹の鳩尾へと叩きつけてやった。
霊感ガチ勢の私の質量を持った蹴撃は、再び霊体であるはずの軍曹の身体を完璧に捉えた。
ドガァァァァァンッッッ!!!
『ぶふぇっ!? 佳子ちゃんんんんんッ!!』
岩崎軍曹は28歳チョンガーの初恋の思い出とともに、客室の壁際まで文字通り弾き飛ばされ、床の上へ無様に転がった。
私はハァハァと荒い息を吐きながら、下着を弄ばれた時以上の怒りを込めて布団を被り直した。
「二度とベッドに入ってくるな、セクハラ英霊未満!!」
壁際で「足がないのに、またしても凄まじい衝撃が……」と悶絶している鬼軍曹の声を完全に遮断し、私はそのまま、深い、深い眠りの底へと落ちていった。
21世紀のビジネスホテルの密室において、ミリタリー知識ゼロの佐倉萌の夏休み一人旅は、ついに深夜の不法侵入を物理的な蹴撃で完全制圧するという、前代未聞の防衛戦を完遂したのだった。
(第8話・完)




