第5話:経済観念が八十年ずれている鬼軍曹は、ビジネスホテルを遊郭と呼んだ
レンガの壁に叩きつけられ、「足がないのに壁に当たったであります……」と目を白黒させていた岩崎軍曹だったが、九五式軍刀の鞘をカチャつかせながら、ヨロヨロと再び這い上がってきた。
怒り心頭の私に睨まれ、さすがに反省したのか、略帽を不器用に直しながら神妙な顔で呟く。
『……す、すまん。悪かった。だが、確かに外は寒いし、俺も腹が減ったな。佐倉殿、不躾なお願いだが、俺もそのピンクの自動車に乗せてはくれまいか』
「はぁ? 嫌ですよ。私は一人で自由に気ままに行動するのが好きなの。なんで幽霊を乗せなきゃいけないんですか」
私がぴしゃりと言い放つと、軍曹はカーキ色の軍衣の胸を張り、カチコチの真面目な顔でとんでもないことを言い出した。
『心配するな! 俺は数えで二十八歳だが、まだチョンガー(独身)だ! 決して怪しい者ではない、安心しろ!』
「さっき私のお尻をガッツリ触った奴が何を言ってるんですか! 説得力ゼロだし、チョンガーっていつの時代の言葉だよ!」
そのうち車内で「酒が飲みたい」だの「タバコが欲しい」だのと言い出すに決まっている。これ以上、この阿寒川の河川敷で付き合っていたら、釧路の美味しい勝手丼にありつく前に私の夏休みが台無しになってしまう。
段々と鬱陶しくなってきた私は、ピンクのハスラーのキーを握り締め、大きくため息をついて言った。
「……はぁ。私はルーティンが崩れる予定変更って大嫌いなんですけど、もう夜だし、今夜は釧路市内のビジホに泊まることにします」
『び、びじほ……? それは新型の陸軍病院か?』
「ビジネスホテルの略ですよ。……あ、一応失礼ですが、お金ってお持ちですか?」
宿泊費を幽霊の分まで奢る義理はない。私が現実的な質問を投げかけると、岩崎軍曹は『金なら、あるッ!』と誇らしげに、腰に下げたキャンバス地の雑嚢をごそごそと漁り始めた。
そして、自慢げに手のひらに差し出してきたのは――。
『どうだ! これだけあれば、豪勢な宿に泊まれるはずだッ!』
そこに並んでいたのは、バナナの絵が印刷された、おじいちゃんが南方から持ち帰ったような大東亜戦争軍票(大東亜共栄権の軍用手票)数枚と、緑青の浮いた古びた「一銭銅貨」が数枚。
「…………」
私は、その歴史的価値しか残っていない紙切れと銅貨を見つめ、今日一番の深いため息を漏らした。
「あの、鉄蔵さん。それ、今の日本ではただのゴミ……じゃなくて、価値のない骨董品です。経済観念がまったく違いすぎますよ、私たち……」
『ば、馬鹿な! 一銭で家が建つとは言わんが、軍票もこれだけあれば十分だろう! ……ところで、佐倉殿』
軍曹は軍票を慌てて雑嚢にしまい込むと、何かを察したように、強面を怪しげにニヤつかせて声を潜めた。
『その「ビジホ」とやら……。もしかして、現代の「遊郭」のことか……? 貴様、二十歳にして、そのような色街に殿方を連れ込もうというのかッ。現代の女子大生は、なんと大胆でハレンチな軍装をしておるのだ……』
私のGUのショートパンツを凝視しながら、大真面目にビジホを吉原かどこかと勘違いしているカチコチの鬼軍曹。
私は冷え切った阿寒川の風の中で、もはや呆れて物も言えなかった。
ピンクのハスラーのエアコンの温もりが恋しい。だけど、助手席にはこの八十年ぶんズレまくったセクハラ幽霊が乗ろうとしている。
ミリタリー知識ゼロの佐倉萌の道東一人旅は、釧路の夕日を見るどころか、一銭銅貨しか持たない亡霊を連れてビジネスホテル(※遊郭ではない)へ強行突入するという、前途多難すぎる第二戦線へと突入していくのだった。
(第5話・了)




