第3話:悲哀の赤レンガトーチカで、そもそも足がないことに気づく
誰もいない、主を失った無骨な阿寒川河口トーチカ。
九五式軍刀の柄を握りしめたままがくりと膝を突き、八十年の孤独と敗戦の現実に打ちひしがれているカーキ色の軍衣の男――岩崎鉄蔵軍曹。略帽の奥から一筋の涙を流す彼の悲哀に満ちた姿を前に、私は一度、大きく深呼吸をした。
「……あの、大変なところ恐縮なんですけど、改めて詳しく自己紹介させてください。私は佐倉 萌。札幌の大学に通っている二十歳です。今回は夏休みの一人旅で、ピンクのハスラーを運転して道東に来ました。普段は夕張の炭鉱遺構とか、枯れたコンクリートを一眼レフカメラで撮るのが趣味の、ただの廃墟オタクなんです」
私が淡々と語る21世紀の自己紹介を、岩崎軍曹は項垂れたまま、三十年式弾薬盒のベルトを力なく軋ませて聞いていた。もはや私をスパイと疑う気力すら湧かないらしい。
夕日が完全に沈み、阿寒川の河川敷に暗い夜の帳が下りていく。
レンガの銃眼から差し込む光が消え、トーチカの内部が本当の闇に包まれようとした、その時だった。
私は、自分が先ほどから感じていた「ある強烈な違和感」について、はっきりと言葉にすることにした。そう、何の前触れもなく、唐突に。
「……ってか、鉄蔵さん」
『……何だ、佐倉とやら』
「そもそもあなた、足がないですよ」
どろりとした、不穏な空気が辺りを包み込んだ。
岩崎軍曹がハッと息を呑み、己の下半身へと視線を落とす。
そうなのだ。
よくよく見てみれば、九八式軍衣の裾から下――本来ならゲートル(巻脚絆)をきっちりと巻き、地下足袋や軍靴を履いているはずの彼の両足が、足首のあたりからすうっと透けて消えていた。レンガの床に、彼の影は一切映っていない。
「いや、本当に。典型すぎる幽霊の形をしてますよ、あなた。……あ、幽霊じゃなくて亡霊(ミリタリー仕様)ですかね」
昨日、雄別炭鉱の廃墟病院でも怪奇現象を経験していた私は、至極冷静にその事実を指摘した。
さっきまで「帝国陸軍の誇り」だの「戦友たちの行方」だのを涙ながらに激論していたカチコチの鬼軍曹が、自分の足元を凝視したまま、完全にフリーズしている。
『お、俺の、ゲートルが……巻脚絆が……ない……!?』
「いや、そこじゃなくて足そのものがないんですって。完全に浮いてますよ、十センチくらい」
八十年間、自分が死んでいることすら忘れてカチコチに死守命令を守り続けていた岩崎軍曹。
二一世紀のiPhoneの光によって戦後であることを突きつけられ、今度は萌のあまりにも真っ直ぐな指摘によって「自分がとっくに足のない亡霊になっていた」という身も蓋もない怪奇現象の現実に直面させられた。
阿寒川の冷たい夜風が、赤レンガの銃眼をヒュウと吹き抜ける。
驚愕のあまり、九五式軍刀を握ったまま硬直する岩崎軍曹の亡霊を呆然とそれを見つめる私。
大楽毛の静かな夜の戦線は、悲哀から一転、とてつもなくシュールで不条理な夜へと突入していくのだった。
(第3話・了)




