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第2話:二一世紀の硝煙なき光と、誰もいないレンガの銃座

 阿寒川の河口から吹き付ける十月の夕風が、生い茂る熊笹の草むらを波立たせ、私の白いロゴTシャツの裾を激しく揺らしていた。

 だが、私の皮膚をチリチリと刺すような緊張感は、北国の寒さのせいだけではない。

 目の前には、全身から湿った泥と硝煙の匂いを漂わせた、カーキ色(国防色)の九八式軍衣を着た男の亡霊。頭には星章のついた布製の略帽を深くかぶり、腰の革ベルトには、弾薬がぎっしり詰まった前袋二個の三十年式弾薬盒(だんやくごう)が厳めしく備わっている。その左腰で鈍い金属音を立てて揺れる九五式軍刀の鞘は、彼が本物の陸軍軍曹――岩崎鉄蔵(いわさき てつぞう)であるという、圧倒的な歴史の現実を突きつけていた。

 銃口を微塵もぶらさずに三八式歩兵銃を突きつけてくる軍曹は、略帽の奥の目を血走らせ、カチコチの軍人精神を剥き出しにして私を睨み据えている。

『我が独立歩兵大隊の死守命令は絶対だッ! 米軍がこの海岸線から上陸してくるその日まで、この陣地を死守せよとの厳命が下っているッ! 敵が来ていないということは、まだ戦時中だッ! 敗北など、帝国陸軍にはあり得んッ!』

 己に言い聞かせるような、悲痛なまでの怒号。

 ミリタリーの知識なんてこれっぽっちもない私だったけれど、昨日、雄別炭鉱の広大な廃墟で経験したあの怪奇現象の記憶が、私の霊感センサーを通じて、目の前の幽霊の「真実」を正確に捉えていた。

 この人は、お化け屋敷の仕掛けなんかじゃない。上層部からの命令を頑なに守り続け、終戦を知らないまま、八十年もの歳月をこの狭い赤レンガの遮蔽物の中で一人きりで耐え抜いてきた、本物の日本兵の地縛霊なのだ。

「……本当に、戦争は終わってるんです」

 私は静かに、しかしはっきりとした声で告げた。

 ミリタリー知識ゼロの私が、このカチコチに凍りついた鬼軍曹の頑なな戦意を解くためにできることは、一つしかなかった。

 私は首から下げた無骨な一眼レフカメラを刺激しないよう、ゆっくりと右手を動かし、GUのデニムショートパンツのポケットから、愛車のピンクのハスラーと同じ色をしたケースに収まったiPhoneを取り出した。

『動くなッ! その光る薄型の電信機は何だ! 敵国の新型爆薬かッ!』

 軍曹の引き金にかかった指がガタガタと震え、三八式小銃の銃身が私を捉える。

「爆弾じゃありません。……これを見てください」

 私は極力刺激しないよう、液晶画面の輝度を上げ、その「未来の光」を放つ薄型の画面を、レンガの銃眼から差し込むわずかな夕日の光に向けて掲げた。

 画面に表示させたのは、インターネットの百科事典に刻まれた『大東亜戦争・終戦』の冷徹なテキストデータ。そしてもう半分には、現在の釧路市街――幣舞橋の周辺を行き交う無数の自動車のライトや、近代的な工場群、そして硝煙などどこにもない、平和な21世紀の日本のリアルタイムの美しいライブカメラ映像。

 文字通り、八十年前の世界には存在し得ない「未来のテクノロジー」が放つ液晶の光。そこに記録された『昭和二十年八月十五日・敗戦』という冷酷な活字の羅列。

 岩崎軍曹の強面が、嘘のようにカチコチに凍りついた。

『ば、馬鹿な……。我が軍が敗れた……? 組織的な抵抗を終え、大東亜の戦いは、もう幕を閉じているというのか……』

 三八式歩兵銃の銃口が、初めて力なく下を向いた。

 軍曹は信じられないものを見るかのように、画面に映し出された釧路の街並みを銃眼越しに恐る恐る覗き込み、それから自分の泥まみれのカーキ色の袖を見つめた。

『では……俺がこの狭いレンガの銃座から、毎日毎日、太平洋の海を見張り続けたこの八十年という歳月は……一体、何だったのだ……』

 長年彼を支え続けていた「任務」という名の背骨が、音を立てて崩壊していく。

 軍曹はよろめき、腰に締めた三十年式弾薬盒の重い革ベルトを悲しげに軋ませながら、入り口から、誰もいない赤レンガのトーチカの暗闇の奥へと後退していった。

『……我が戦友たちはどこへ行ったッ! 独立歩兵大隊の皆は、どこへ復員したのだッ! 俺を一人残して、みんな、どこへ行ってしまったのだァァァッ!!!』

 かつては兵員たちがひしめき合い、汗と泥にまみれながら、米軍の襲来に備えて三八式小銃のボルトアクションの音を響かせていたであろう、狭いトーチカの内部。

 しかし、そこに残されているのは、崩落しかけ、長い年月で厚い苔に覆われた赤レンガの壁と、足元を虚しく這い回る冷たい山の空気だけだった。

 誰もいない、主を失った無骨なレンガの銃座。

 カチコチだった鬼軍曹の亡霊は、九五式軍刀の柄を握りしめたまま、その場にがくりと膝を突き、圧倒的な孤独と悲哀に打ちひしがれて呆然と立ち尽くしていた。その略帽の奥から、乾いた胡粉の肌を伝うように、一筋の、霊的な涙が流れ落ちるのを私は見た。

「軍曹さん……」

 私は一眼レフカメラを首から下げたまま、ハスラーを停めた国道の方を振り返り、それから再び、夕日を浴びて物悲しく佇む阿寒川の赤レンガトーチカを見つめた。

 あまりにも重すぎる歴史の不条理と、一人の日本兵の孤独。

 私はその赤レンガの静寂の前で、ただただ圧倒され、何も言えずに立ち尽くすことしかできなかった。

(第2話・了)

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