第1話: プロローグ
私は、古い建造物の風化していくディテールを愛する、ガチの「廃墟オタク」だ。
女子大生らしいオシャレや恋愛には目もくれず、週末になれば一眼レフカメラを相棒に、北海道各地の遺構を巡るのが何よりの癒やしだった。普段は美唄や夕張の閉山した炭鉱のホッパー、あるいは主を失った無骨な廃墟ホテルなどを好んで撮影している。ミリタリーへの興味や知識はまったくない。ただただ、数十年という歳月を経て自然に侵食されていく、人工物の物悲しい質感に惹かれるだけだった。
そんな私には、昔から霊感が強いという変わった体質があった。
札幌の大学の夏休みを利用して、私は初めての道東一人旅に出た。愛車は、自分で選んだお気に入りのピンクのスズキ・ハスラー。阿寒湖温泉の宿に一泊し、この旅の最大の目的だった閉山した『雄別炭鉱』の遺構を探索するためだ。
昨日訪れた雄別炭鉱の広大な廃墟群――鬱蒼とした森の中に佇む病院跡や巨大な煙突の敷地でも、実ははっきりと怪奇現象を経験していた。誰もいないはずの暗闇から響く足音や、背後を通り抜ける冷たい気配。普通の人間なら恐怖で逃げ出すような心霊体験だったけれど、霊感ガチ勢の私は「あ、やっぱりここにもいるんだな」と心の中で受け流し、手ブレに気をつけながら夢中でシャッターを切り続けた。幽霊の怖さよりも、朽ちていくコンクリートの美しさを記録したいという好奇心の方が、私の中ではいつでも勝っていた。
そして翌日。雄別炭鉱での目的を終えた私は、ピンクのハスラーを運転して釧路市街へと向かっていた。今日の夕方は、有名な幣舞橋の夕日を眺めて、それから和商市場で名物の「勝手丼」を食べる計画だった。
阿寒から釧路へと続く国道を軽快に走らせ、阿寒川の左岸河川敷に差し掛かった時のことだ。草むらの向こうに、周囲の自然には明らかに調和しない、異様な赤茶けた塊がポツンと佇んでいるのが目に留まった。
「……何、あれ。炭鉱の遺構じゃないよね?」
私はハスラーを路肩に止め、気になってiPhoneでその場所を調べてみた。画面に表示された情報を見て、私は目を見張った。それが太平洋戦争の末期、米軍の侵攻に備えて作られた歴史的遺物――『阿寒川河口トーチカ』であると判明したからだ。
車を降り、一眼レフカメラを抱えて草むらをかき分ける。近づくにつれて、その独特なビジュアルに胸が高鳴った。一般的なコンクリート製の無機質なトーチカとは違い、ここはイギリス積みで組まれた美しい赤レンガの壁がむき出しになっている。上部には丸太とコンクリートを固めた分厚い掩蓋が帽子のように乗り、長い歳月を経て青々とした草が茂っていた。軍事目的のためだけに作られた、冷酷で、なおかつ圧倒的にエモい歴史の遺物。
私はレンガの壁に四角くくり抜かれた「銃眼」へと近づいた。その真っ暗な奥底の空間を切り取ろうと、ファインダーを覗き込んでレンズを向けた、その瞬間だった。
皮膚を刺すような、重苦しい霊気が走る。
雄別炭鉱の幽霊とは比べ物にならないほど生々しい戦意の波動。銃眼の暗闇の奥から、ギラリと光る人間の血走った眼光が突如として現れた。
――ガチャンッ!!!
冷徹な金属音が響き、暗闇から突き出されたのは、異様に長い木と鉄の銃身――三八式歩兵銃だった。
『曲者ッッ!!! 動くなッ! 貴様何奴だ、敵の潜入スパイかァァァッ!!!』
レンガの隙間から響く、鼓膜を震わせるほどの凄まじい怒号。トーチカの狭い入り口から姿を現したのは、全身から湿った泥と硝煙の匂いを漂わせた、カーキ色(国防色)の九八式軍衣を着た男の亡霊だった。
頭には星章のついた布製の略帽を深くかぶり、腰の革ベルトには、真鍮のバックルとともに、弾薬がぎっしり詰まった前袋二個の三十年式弾薬盒が厳めしく備わっている。さらにその左腰には、下士官の証である鉄製の鞘に収まった九五式軍刀が、鈍い金属音を立てて揺れていた。
襟元には軍曹の階級章。その下にある顔は、数々の修羅場をくぐり抜けてきたことが一発で分かる、カチコチに強面な陸軍軍曹――岩崎鉄蔵だった。
あまりの威圧感に、私はさすがに足がすくんだ。本物の戦場という極限状態の心理のまま、80年間凍りついている地縛霊だ。
「……あ、すいません。ただの廃墟オタクです。写真、撮ってただけです」
『はいきょおたくさん……? わけのわからん敵国の暗号を使うなッ! 貴様、その太ももを剥き出しにした破廉恥な軍装は何事だッ! 帝国陸軍の軍紀を乱す気かッ! 憲兵を呼べ、憲兵をッ!』
岩崎軍曹は、現代のカメラを未知の電信機か爆薬と勘違いしているのか、銃口を微塵もぶらさずに私を睨みつける。私はミリタリーの知識がないため、その小銃や腰の弾薬盒が本物であること、そして軍曹のカーキ色の軍衣に染み付いた汚れが、80年前のガチな戦場の泥であることしか分からなかった。
「憲兵なんていませんよ……。っていうか、ここ阿寒川の河口ですよ。今は二一世紀です。戦争はもう終わってます」
『……何だと?』
軍曹の引き金にかかった指が、わずかに震えた。
『嘘を言うなッ! 我が独立歩兵大隊には、米軍がこの海岸線から上陸してくるその日まで、この陣地を死守せよとの厳命が下っているッ! 敵が来ていないということは、まだ戦時中だッ! 敗北など、帝国陸軍にはあり得んッ!』
終戦を知らず、上層部からの死守命令を腰の弾薬盒のベルトごとカチコチに守り続けて80年。彼は未だに「戦時中」の張り詰めた恐怖の中に一人で取り残されていたのだ。
阿寒川の冷たい風が、レンガの隙間をすり抜けて悲鳴のように鳴り響く。ピンクのハスラーの後ろで、ミリタリー知識ゼロの私と、極限の心理のまま凍りついているカチコチの陸軍軍曹の、噛み合わないまま緊迫した対峙が始まろうとしていた。
(第1話・了)




