覚悟
まぶたの裏に、
白い光がじわりと滲んでくる。
(……ここ……どこ……?)
ゆっくり目を開けると、
天井の白いパネルがぼやけて見えた。
消毒液の匂い。
機械の微かな電子音。
冷たいシーツの感触。
(……病室……?)
頭が重い。
体が鉛みたいに動かない。
視界の端に、
誰かの影が見えた。
「……香織……?」
尚文だった。
目の下が赤く腫れている。
泣いたあとだと、すぐに分かった。
「……尚文……?」
声がかすれて、自分のものじゃないみたいだった。
尚文は、
震える手で私の手を握った。
「よかった……
本当に……よかった……」
その声を聞いた瞬間、
胸の奥がじんわり熱くなった。
(……あぁ……
私……倒れたんだ……)
記憶がゆっくり戻ってくる。
洗面所の鏡。
視界の歪み。
包丁が落ちる音。
愛華の泣き声。
そして——
暗闇。
(……ごめん……
心配かけた……)
そう言おうとしたけれど、
言葉が喉に引っかかって出てこなかった。
尚文は、
私の手を握ったまま、
何度も深呼吸していた。
「……香織……
怖かった……
本当に……怖かった……」
声が震えている。
「愛華が……
“ママが倒れた”って泣き叫んで……
俺……どうしていいか分からなくて……
救急車の中でも……
ずっと呼んでたんだ……
香織の名前……」
尚文の涙が、私の手の甲に落ちた。
(……そんなに……
怖い思いをさせたんだ……)
胸が締め付けられる。
「……ごめん……」
やっとの思いで言葉を絞り出すと、
尚文は首を振った。
「違う……
謝らなくていいよ……
今こうして話が出来ているだけで良かった……」
その言葉が、
胸の奥に深く刺さった。
病室のドアがそっと開いた。
「……ママ……?」
特別に面会を許された、愛華だった。
目が真っ赤で、
鼻をすすりながら、
小さな手で鈴を握りしめている。
「愛華……」
手を伸ばすと、愛華は泣きながら飛び込んできた。
「ママぁぁぁぁ!!
しんじゃったかとおもったぁぁぁ!!」
その声が、
胸に突き刺さる。
(……こんな思いをさせたくなかった……
絶対に……)
愛華の背中を撫でながら、私は静かに涙をこぼした。
しばらくして、佐伯先生と脳外の担当医・清水先生が病室に入ってきた。
「香織先生、少しお話よろしいですか」
私はゆっくり体を起こした。
清水先生は、モニターに映るMRI画像を指差した。
白く光る影。
脳の深い部分に、
はっきりと存在している。
「……これが……?」
清水先生は静かに頷いた。
「脳への転移です。乳がんの……」
その瞬間、尚文が息を呑むのが分かった。
でも私は——
驚かなかった。
(……やっぱり……
そうだったんだ……)
医師として、この影の意味を理解していた。
位置。
大きさ。
周囲の浮腫。
(……これは……
進行が早いタイプ……)
清水先生は続けた。
「治療はできます。
ただ……根治は難しいと思われます。
症状は……急速に進む可能性があります」
愛華は状況が分からず、
ただ不安そうに私を見つめている。
私は、静かに目を閉じた。
(……分かってた……
あの頭痛の時点で……
私は……医師だから……
分かってしまった……)
でも、胸の奥に浮かんだのは恐怖ではなかった。
——青森の海。
——ねぶたの光。
——花火の夜。
——尚文の手の温かさ。
——愛華の笑顔。
(……あぁ……
あの旅に行けてよかった……
あの光を見られて……
本当によかった……)
涙が頬を伝った。
清水先生の言葉は、
まるで遠くの海の底から聞こえてくるみたいだった。
「……余命は……
治療の反応にもよりますが……
数ヶ月……
長くて半年ほどかと……」
尚文の手が、
私の手を強く握った。
愛華は意味が分からず、
ただ不安そうに私を見ている。
私は、
静かに息を吸った。
(……そうか……
やっぱり……
そうなんだ……)
恐怖はなかった。
ただ、
胸の奥に静かに落ちていく“納得”だけがあった。
(……私は……
もう長くは生きられない……)
でも、
その事実よりも、
尚文と愛華の顔の方が胸に刺さった。
(……この二人を残していくのか……
それが……一番つらい……)




