新たな始まり
青森から帰ってきて、1年ほど経った頃。
愛華は、保育園を卒園し小学生になっていた。
朝、目を覚ました瞬間、
こめかみの奥がズキッと痛んだ。
(……あれ……?)
寝不足でもない。
疲れているわけでもない。
ただ、脳の奥が、
ゆっくりと締め付けられるように痛む。
「ママー、おはよー!」
愛華が飛びついてきて、
その衝撃でまた痛みが走った。
(……ちょっと、変……)
でも、すぐに笑顔を作る。
「はいはい、小学校一年生は今日も朝から元気だね~」
痛みは数分で消えた。
(大丈夫……きっと、疲れだ……)
そう思い込んだ。
その二日後。
仕事中、カルテを打っていると、視界の端がふっと揺れた。
(……あれ……?)
次の瞬間、
ズキン、と鋭い痛み。
(……偏頭痛……?
でも、こんな痛み……)
深呼吸して、痛みが引くのを待つ。
数分後、痛みは消えた。
(……大丈夫……大丈夫……)
そう言い聞かせた。
その週の金曜日。
朝、洗面所で髪を結んでいると、突然、視界がぐにゃりと歪んだ。
(……え……?)
鏡の中の自分の顔が、
一瞬だけ二重に見えた。
そして——
ズキンッ!!
思わず洗面台に手をつく。
(……これ……
この感じ……)
胸の奥が冷たくなる。
——旦那が亡くなる日の朝。
——同じように、頭を押さえていた。
——「大丈夫だよ」と笑っていた。
——その数時間後、倒れた。
(……いや……違う……
私は大丈夫……
私は……)
でも、
鏡の中の自分の顔は、
その時の旦那と同じだった。
青ざめて、
どこか遠くを見ている。
(……まさか……
そんなはず……)
震える手で髪を結び直す。
愛華の声が聞こえる。
「ママー?どうしたのー?」
「……なんでもないよ」
声が震えていた。
その日の夕方。
夕飯を作っている最中だった。
包丁を持った手が、
突然、力を失った。
カランッ。
包丁が床に落ちる。
(……あ……)
視界がぐにゃりと揺れる。
世界が遠ざかる。
「ママ!?ママ!!」
愛華の声が、
水の中から聞こえるみたいに遠い。
(……だめ……倒れちゃ……)
そう思った瞬間、
膝が崩れた。
床が近づく。
暗闇が迫る。
(……尚文……)
その名前を心の中で呼んだところで、意識が途切れた。
サイレンの音が、遠くで鳴っている。
「香織!香織、聞こえるか!?
しっかりしろ!!」
尚文の声。
泣きそうな声。
(……ごめん……
大丈夫……
大丈夫だから……)
言いたいのに、
声が出ない。
担架の揺れが、
体の奥に響く。
愛華の泣き声が聞こえる。
「ママぁぁぁぁ!!」
(……泣かないで……
大丈夫……)
でも、まぶたが重くて開かない。
世界が遠ざかっていく。
……何となく、うっすらと意識が戻る。
救急室の光が眩しい。
医師たちの声が、
早口で飛び交う。
「意識レベル低下」
「視野障害の可能性」
「脳浮腫……?」
ぼくの名前を呼ぶ声がする。
「旦那さん、こちらへ」
尚文の足音が近づく。
(……尚文……)
でも、
目を開けられない。
尚文が手を握っている。
その手が震えている。
医師が静かに口を開いた。
「……MRIの結果が出ました」
尚文が息を呑む。
医師は、モニターに映る白い影を指差した。
「脳に……腫瘍が見つかりました。
乳がんの……転移と思われます」
尚文の手が強く握られる。
「……そんな……
だって……元気だったのに……
旅行にも……」
医師は静かに首を振った。
「脳転移は、症状が出るまで気づかないことが多いんです。
進行も……早いことが多い」
尚文の呼吸が乱れる。
私は、薄い意識の中でその言葉を聞いた瞬間、
すべてを理解した。
(……あぁ……
やっぱり……
そうだったんだ……)
医師が続ける。
「治療はできます。
ただ……根治は難しいと思われます」
尚文が崩れ落ちるように泣いた。
私は、
その姿を感じながら、
静かに目を閉じた。
(……ごめんね……
でも……
まだ……終わりじゃない……)
涙が頬を伝った。




