家族の音
手術から数日。
胸の痛みはまだあるけれど、
それよりも心の方が落ち着かない。
(……今日、結果が出る……)
病室のドアがノックされ、
佐伯先生が入ってきた。
「香織先生、病理結果が出ました」
心臓が跳ねた。
尚文が椅子から立ち上がり、
私の手を握る。
「……お願いします」
佐伯先生は資料を開き、
穏やかな声で言った。
「結果ですが、摘出した腫瘍は乳がんでした。
サブタイプは ルミナールB型 ですので、香織先生ならイメージがつくと思います。
腫瘍は完全に切除できており、局所的には問題ありません。
抗がん剤が“必須”という状況ではありませんので、
術後はホルモン療法を中心に進める方針で良いと考えています。
ご主人にも分かりやすくお伝えすると、
“手術で取り切れていて、今後は飲み薬で再発を防ぐ治療”という形になります。」
その瞬間、
胸の奥が一気にほどけた。
「……よかった……」
涙がこぼれた。
尚文は私の手を強く握り、
小さく息を吐いた。
「……本当に……よかった……」
佐伯先生は優しく微笑んだ。
「リハビリを続けて、傷が落ち着けば退院できますよ」
私は深く頷いた。
(……生きられる……
愛華のところに帰れる……)
その事実が、胸にじんわり広がった。
手術した側の腕は重くて、思うように上がらない。
リハビリの先生が言う。
「焦らなくて大丈夫ですよ。少しずつ動かしていきましょう」
尚文は毎日面会に来て、私の腕を支えながら一緒に動かしてくれた。
「痛かったら言えよ」
「……うん。でも大丈夫」
「大丈夫じゃなくても言えよ」
その言葉が優しくて、何度も泣きそうになった。
毎日、愛華から手紙が届く。
「ママ、きょうはおりがみしたよ」
「ママ、はやくかえってきてね」
「パパ、あいかのこといっぱいまもってるよ」
小さな字で、一生懸命書かれた手紙。
15通目の手紙を開いた時、胸がぎゅっとなった。
「ママ、あしたもがんばってね。あいか、まいにちまってるよ」
(……帰りたい……
早く抱きしめたい……)
その時だった。
病室のドアがノックされ、担当の看護師さんが微笑んだ。
「香織先生。退院の許可が出ましたよ」
息が止まった。
「……ほんとうに……?」
「はい。明日、退院できます」
尚文が私の肩に手を置いた。
「香織……帰れるぞ」
涙が溢れた。
「……帰りたい……愛華に……会いたい……」
尚文は優しく頷いた。
「明日、迎えに来る。三人で帰ろう」
私はその言葉を聞きながら、静かに涙を流した。
退院の日の朝。
病院の玄関前には、愛華と香織の両親が並んで立っていた。
愛華は落ち着かない様子で、何度も玄関の方を覗き込んでいる。
「パパ、まだ……?ママ、まだでてこない……?」
「もうすぐだよ。ほら、あそこ」
自動ドアが開き、看護師さんに付き添われた香織が出てきた。
その瞬間——
「ママぁぁぁぁぁ!!」
愛華が叫んで走り出した。
看護師さんが驚いて止まろうとしたけど、
香織は笑って手を伸ばした。
「愛華……!」
愛華は香織の膝に飛びつき、
小さな腕でぎゅうっと抱きしめた。
「ママ……ママ……!
ほんとに……ほんとにかえってきた……!」
香織は涙をこぼしながら、愛華の頭を何度も撫でた。
「帰ってきたよ……
愛華のところに……ちゃんと……」
その姿を見て、
ぼくも胸が熱くなった。
香織の両親も涙ぐみながら近づき、そっと香織の肩に触れた。
「よく頑張ったね……香織……」
香織は微笑んで頷いた。
車に乗ると、愛華はずっと香織の手を握っていた。
「ママ、もういたくない?もうだいじょうぶ?」
「うん……まだちょっと痛いけどね。
でも大丈夫。
愛華に会えたから、すごく元気になったよ」
愛華は安心したように笑った。
「じゃあね、あいかね、きょうはママのとなりでねるの!」
香織は笑いながらぼくを見る。
「……いいの?」
「もちろん。」
愛華は嬉しそうに手を叩いた。
家に帰ると、玄関の匂いが懐かしく感じた。
香織はゆっくり靴を脱ぎ、リビングに入ると深く息を吸った。
「……帰ってきた……
ほんとに……帰ってきたんだ……」
愛華は香織の手を引っ張り、自分の描いた絵を見せ始めた。
「ママ、みて!
これね、ママとパパとあいかのえ!
まいにちかいたの!」
香織は絵を抱きしめるように胸に当てた。
「……ありがとう……
宝物にするね……」
夕飯は簡単なものにしたけど、三人で食卓を囲むだけで胸がいっぱいになった。
愛華はずっと香織の隣に座り、
何度も手を握っていた。
夜。
ベッドに三人で横になると、
愛華は香織の腕にしがみついた。
「ママ、もうどこにもいかないでね……」
香織は愛華の髪を撫でながら答えた。
「行かないよ。
ずっと一緒にいるよ。
愛華と、パパと……三人でね」
愛華は安心したように目を閉じた。
その横で、香織が小さな声で俺に囁いた。
「……帰ってこれたね……
ありがとう、尚文……
あなたがいたから……ここにいられる……」
ぼくは香織の手を握り返した。
「おかえり、香織。
本当に……よく帰ってきた」
香織は涙をこぼしながら微笑んだ。
「ただいま……」
その夜、
三人の寝息が静かに重なっていった。
家の中に、久しぶりに“家族の音”が戻ってきた。




