味方
勤務が終わった夕方。
私は白衣を脱ぎ、患者として乳腺外科の前に立っていた。
胸が重い。
足が少し震えている。
「香織先生、どうぞ」
同僚の医師——
乳腺外科のベテラン、佐伯先生が優しい声で呼んだ。
診察室に入ると、
いつもと違う空気が流れている気がした。
「今日は……自分の検査結果を?」
「……はい」
声が少し掠れた。
佐伯先生は、私のMRI画像を静かに開いた。
画面に映る“黒い影”。
私は息を止めた。
先生はしばらく黙って画像を見つめ、やがてゆっくりと口を開いた。
「……香織先生。これは……精密検査が必要だね」
分かっていた。
自分でも分かっていた。
でも、
“他人の口から言われる”と、
現実が一気に重くなる。
「……良性の可能性もありますか?」
自分でも驚くほど弱い声が出た。
佐伯先生は、
医者としての冷静さと、
同僚としての優しさを混ぜた表情で言った。
「ゼロではない。
でも……形が少し気になる。
組織検査をしよう。
早い方がいい」
胸がぎゅっと痛くなる。
(……やっぱり……
そうなんだ……)
「……分かりました」
そう言うのが精一杯だった。
「香織先生、仕事の都合もあるだろうけど……
できれば今週中に」
「はい……大丈夫です」
本当は大丈夫じゃない。
でも、言うしかなかった。
先生は優しく続けた。
「怖いと思うけど……
早期なら治療の選択肢はたくさんある。大丈夫、一緒にやっていこう」
その言葉が、
胸に刺さる。
(……怖い……
本当に……怖い……)
でも、泣けなかった。
泣いたら、
崩れてしまいそうで。
家に帰ると、
尚文が玄関まで迎えに来た。
「おかえり、香織。今日は遅かったな」
その笑顔が、優しすぎて苦しい。
「……うん。ちょっとね」
愛華が走ってきて抱きつく。
「ママ、おなかすいたー!」
「はいはい……今行くよ」
笑って返したけど、胸の奥は重いままだった。
夕飯の間も、尚文はいつも通り話しかけてくる。
「香織、明日休みだろ?どっか行くか?」
「……うん……考えとくね」
尚文は気づいていない。
私の声が少し震えていることに。
(……言えない……
まだ……言えない……)
夜、寝室で横になった時、胸の奥の影が脈打つように感じた。
(……どうしよう……
本当に……どうすれば……)
尚文が隣で寝息を立てている。
その温もりが、
今は少しだけ遠く感じた。
★★★
最近の香織は、どこかおかしい。
笑っている。
仕事もしている。
愛華にも優しい。
でも——
目の奥が笑っていない。
ぼくはその違和感に気づいていた。
ある朝、
香織がコーヒーを淹れている時、
カップを持つ手がわずかに震えた。
「香織、大丈夫か?」
「え……? うん、大丈夫」
笑ってごまかしたけど、
その笑顔はどこか無理をしていた。
(……絶対に何かある)
そう思った。
その日も、香織は遅く帰ってきた。
「おかえり。遅かったな」
「……うん。ちょっとね」
声が弱い。
目が赤い気がした。
(泣いた……?)
そう思ったけど、聞けなかった。
香織は強い。
でも、強い人ほど無理をする。
夕飯のあと、香織が食器を洗っていた。
ふと見ると、香織の肩が小さく震えていた。
「香織……?」
声をかけると、香織はびくっと肩を揺らした。
「……なに?」
振り返った香織の目が、ほんの少し潤んでいた。
(……やっぱり……何かある)
ぼくはそっと近づいた。
「最近……元気ないよな。何かあったのか?」
香織は一瞬だけ目をそらし、
唇を噛んだ。
そして——
小さく、震える声で言った。
「……今日……
組織検査……してきたの」
心臓が止まった。
「……組織……検査……?」
香織はゆっくり頷いた。
「……胸に……しこりがあって……
専門医に診てもらったら……
精密検査が必要って……」
声が震えていた。
ぼくは言葉を失った。
(……なんで……
なんで一人で……)
香織は続けた。
「……尚文に……
心配かけたくなくて……
でも……怖くて……」
その瞬間、香織の目から涙がこぼれた。
「……怖いよ……
尚文……
どうしたらいいの……」
ぼくはもう、
何も考えられなかった。
ただ——
香織を抱きしめた。
強く、強く。
「……一人で抱えんなよ……
なんで言わなかったんだよ……
俺は……香織の味方だろ……」
香織はぼくの胸に顔を埋めて泣いた。
「……ごめん……
ごめんね……」
「謝るな。
一緒に行こう。
どんな結果でも……
俺が全部受け止めるから」
香織の肩が震えた。
ぼくはその震えを、ただ抱きしめて受け止めた。




