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72/90

味方

勤務が終わった夕方。


私は白衣を脱ぎ、患者として乳腺外科の前に立っていた。



胸が重い。


足が少し震えている。



「香織先生、どうぞ」




同僚の医師——


乳腺外科のベテラン、佐伯先生が優しい声で呼んだ。



診察室に入ると、


いつもと違う空気が流れている気がした。



「今日は……自分の検査結果を?」



「……はい」



声が少し掠れた。



佐伯先生は、私のMRI画像を静かに開いた。



画面に映る“黒い影”。



私は息を止めた。



先生はしばらく黙って画像を見つめ、やがてゆっくりと口を開いた。



「……香織先生。これは……精密検査が必要だね」



分かっていた。


自分でも分かっていた。



でも、


“他人の口から言われる”と、


現実が一気に重くなる。



「……良性の可能性もありますか?」



自分でも驚くほど弱い声が出た。



佐伯先生は、


医者としての冷静さと、


同僚としての優しさを混ぜた表情で言った。



「ゼロではない。


 でも……形が少し気になる。


 組織検査をしよう。


 早い方がいい」



胸がぎゅっと痛くなる。



(……やっぱり……


 そうなんだ……)



「……分かりました」



そう言うのが精一杯だった。



「香織先生、仕事の都合もあるだろうけど……


 できれば今週中に」



「はい……大丈夫です」



本当は大丈夫じゃない。


でも、言うしかなかった。



先生は優しく続けた。



「怖いと思うけど……


 早期なら治療の選択肢はたくさんある。大丈夫、一緒にやっていこう」



その言葉が、


胸に刺さる。



(……怖い……


 本当に……怖い……)



でも、泣けなかった。



泣いたら、


崩れてしまいそうで。



家に帰ると、


尚文が玄関まで迎えに来た。



「おかえり、香織。今日は遅かったな」



その笑顔が、優しすぎて苦しい。



「……うん。ちょっとね」



愛華が走ってきて抱きつく。



「ママ、おなかすいたー!」



「はいはい……今行くよ」



笑って返したけど、胸の奥は重いままだった。



夕飯の間も、尚文はいつも通り話しかけてくる。



「香織、明日休みだろ?どっか行くか?」



「……うん……考えとくね」



尚文は気づいていない。


私の声が少し震えていることに。



(……言えない……


 まだ……言えない……)



夜、寝室で横になった時、胸の奥の影が脈打つように感じた。



(……どうしよう……


 本当に……どうすれば……)



尚文が隣で寝息を立てている。



その温もりが、


今は少しだけ遠く感じた。



★★★



最近の香織は、どこかおかしい。



笑っている。


仕事もしている。


愛華にも優しい。



でも——


目の奥が笑っていない。



ぼくはその違和感に気づいていた。



ある朝、


香織がコーヒーを淹れている時、


カップを持つ手がわずかに震えた。



「香織、大丈夫か?」



「え……? うん、大丈夫」



笑ってごまかしたけど、


その笑顔はどこか無理をしていた。



(……絶対に何かある)



そう思った。



その日も、香織は遅く帰ってきた。




「おかえり。遅かったな」



「……うん。ちょっとね」



声が弱い。


目が赤い気がした。



(泣いた……?)



そう思ったけど、聞けなかった。



香織は強い。


でも、強い人ほど無理をする。



夕飯のあと、香織が食器を洗っていた。



ふと見ると、香織の肩が小さく震えていた。



「香織……?」



声をかけると、香織はびくっと肩を揺らした。



「……なに?」



振り返った香織の目が、ほんの少し潤んでいた。



(……やっぱり……何かある)



ぼくはそっと近づいた。



「最近……元気ないよな。何かあったのか?」



香織は一瞬だけ目をそらし、


唇を噛んだ。



そして——


小さく、震える声で言った。




「……今日……


 組織検査……してきたの」



心臓が止まった。



「……組織……検査……?」




香織はゆっくり頷いた。




「……胸に……しこりがあって……


 専門医に診てもらったら……


 精密検査が必要って……」



声が震えていた。



ぼくは言葉を失った。




(……なんで……


 なんで一人で……)



香織は続けた。



「……尚文に……


 心配かけたくなくて……


 でも……怖くて……」



その瞬間、香織の目から涙がこぼれた。



「……怖いよ……


 尚文……


 どうしたらいいの……」



ぼくはもう、


何も考えられなかった。



ただ——


香織を抱きしめた。



強く、強く。



「……一人で抱えんなよ……


 なんで言わなかったんだよ……


 俺は……香織の味方だろ……」



香織はぼくの胸に顔を埋めて泣いた。



「……ごめん……


 ごめんね……」



「謝るな。


 一緒に行こう。


 どんな結果でも……


 俺が全部受け止めるから」



香織の肩が震えた。



ぼくはその震えを、ただ抱きしめて受け止めた。

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